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春はあけぼの、手淫の季節、富士には猫の死体がよく似合う

いかがお過ごしか。あなたの<人生>という懲役刑(冤罪)はまだ続いていますか。倦怠と希死念慮の飽和した春愁にどっぷり身を浸していますか。ただでさえ世を呪っているのに花粉症の鼻詰まりでますます日常が耐えがたくなっている僕はこのごろまいにちゲロみたいな日記をチンポいじりながら書いています。本もけっこう読んでいます。いやまじでほんとに鼻の詰まり具合が半端じゃなくて、睡眠もしきりと妨害されているんだ。ところで妨害の妨の字。よくみたら女偏。防じゃないのね。「漢字文化はやっぱり女性蔑視だ」とか眼を三角にして叫ぶつもりはないけども(それはフェミニズムの戯画的イメージを再生産することだ)。しばしば私は漢字を拘束衣のように感じることがある。「同音異義語」の文字変換で「正しい漢字」を選んでいる途中、うんざりしてやりきれない気持ちになることがある。「国語とは祖国」というけどそれは「呪い」でもある。

ああそれにしても、自称作家すなわちニートは時間にだけは不足しないものだ。俗人はよく「時間とお金はトレードオフ」といっている。たしかに俗人にとってはその通りなのだろう。でも僕はそもそも俗人以前だ。士農工商ピラミッドの埒外にいる。なのにどうしてその俗人的原理に縛られないといけないんだ。これいじょうないほど惨めな何かになりたい。

書いても読んでも、ぜんぜん楽にならない。もっとも精神の平静を得るために書いたり読んだりしているわけではないのだけど。僕の<魂の兄貴>エミール・シオランいわく「一冊の本は延期された自殺」だそうだ。僕のこの拙劣無類の痰壺駄文も「生き続けていることの弁明」でしかないのだろうね。露悪的なぶん痛々しいや。「そんなに苦しいなら死ねばいいじゃん、お前が死んだって世界はびくともしないよ」と自分を挑発しない日はない。
隣のキング・オブ・無神経のヤニカス糞ジジイへの殺意は相変わらず。最近はいわゆる<思い出し羞恥>が猛威を振るっている。「あああああああああ」ってなる頻度がやたら高くて、すこぶる苦しい。「すこぶる」って言葉知ってんだよ俺、すごいでしょう。カプサイシンの割合を測定した数値のことじゃないよ。しかし、この「あああああああああ」の正体はいったいなんなのだろう。だた単に「恥の多い人生を生涯を送ってきました」ということなのか。ドストエフスキーもバルザックも漱石もこの「ああああああああ」にはメスを入れなかった。きっと問題は「悔恨」ではないのだ。これもまた「強迫神経症」の一症状なのかも知れない。とりあえずいまは、「実存根拠は最初から失われている」という堪えがたい剥き出しの事実との直面に起因する「不安」を回避もしくは緩和するための防衛機制として把握している。これは研究に値するだろう。

ところで私は「怒り中毒」なのか。いつもコメカミに青筋立てながら人事百般を罵っている。罵らないでは生きられない醜悪なモンスターになっている。この世界が楽園ではない、ということが許せない。卑小な人間どもがひしめきあっているこの世界を、許容できない。いますぐ地球の人口をゼロにすることは無理だが、ちょっとづつ減らすことは出来る。これいじょう害獣ホモ・サピエンスを増やすな。左派も右派も世代生産(子作り)を労働力確保や税収維持の手段として捉えている点で、同じくらいキモい。非倫理的だ。そのことをそろそろ自覚してほしい。それが知性の成熟というものだ。成熟した知性はおうおうにして「本能」に逆らうものなのだ。苛烈な「自己批判」を伴うものなのである。だから人間中心主義でしかないSDGsなんか、糞くらえなのです。

『マクベス』の魔女のセリフに「綺麗は汚い、汚いは綺麗」というのがあったけど、私は眼が覚めるたび「正気は狂気、狂気は正気」とつぶやく。たまに私は自分以外はぜんいん愚物に違いないという確信に打たれる。へらへらしているやつを往来で見かけると撲殺したくなる。「ネガティブな言葉は伝染するから気を付けなよ」なんてドヤ顔で説教してくる愚鈍な言霊信者もついでに殺したい。『ターミネーター2』で悪役ターミネーターが指先を針にして相手の額を刺し通すシーンが確かあったが、ちょうどあんな感じで嫌いな奴を片っ端から殺したい。

ペシミストはほとんと例外なく諧謔家である、という文言がシオランの『カイエ』のなかにあった。その通り。ところで諧謔家を諧謔家たらしめているものとは何か。裸の王様を見かけると自らも裸になって一緒に歩くような風狂ではないか。僧堂の前で生野菜を食っていた普化が、臨済に「まるで ロバだ」と言われ、「めー」と応答した、あの風狂。当意即妙の戯心(たわぶれごころ)。

ところで私のこの「はしたない知性」はこんご何に取り組むべきか。隣人愛の「不可能性」についての考察か。「銀行設立に比べれば銀行強盗などいかほどの罪でしょうか」(ブレヒト)の別バージョンである倫理的設問「子供を作ることに比べれば人殺しなどいかほどの罪でしょうか」に答えることか。「少年愛」の美学か。マルティン・ハイデガー批判か。ジェンダー・ロール研究か。「権力論」か。

ともあれ「人生」は残酷なんだ。すでに生存しているというこの痛ましい事実は、私を途方に暮れさせる。

「さあ「き」で始まるものの名前を何かいってみよう」
「きんたま!」
「もっときれいなものにしようね」
「きれいなきんたま!」
汚い金玉と汚い亀頭の俺はいまからマスターベーションをする。パリパリのティッシュに埋もれながら。森羅万象を呪いながら。救いようのないクズ男としての自覚を新たにしながら。

親ッさんが立つ俎の後ろに、大きな水槽がおいてあって、その中に鯛やハゲ(皮剥ぎ)や車蝦が泳いでいた。ある日、島がその水槽を覗きながら、
「こいつら、可哀そうに、みないずれ糞になって行くんやろな。」
と洩らした。私は、はッ、とした。そうか、料理を作ることは、糞と小便を製造することだ、とはじめて気が付いたのである。島は前歯が一本抜けた男だった。

車谷長吉『贋世捨人』(文藝春秋)

青年よ、邪心を抱け。射精して犀の角のようにただ独り歩き出せ。
中年よ、もう諦めろ。射精して犀の角のようにただ独り歩き出せ。
<生命>とは宇宙史におけるひとつの巨大なジョークなのだからいっそ死ぬほどに狂い踊ろうではないか。やけのやんぱち日焼けのなすび。ソーダ水の中を石油タンカーが通る。反逆小唄。ルーマニア在住童貞の恥垢、百合の花を目に刺した幼女、瀬戸物の薔薇、栄光への架橋、ダイソーの500円商品、ダイナミック小人プロレス、鬼哭啾々死屍累々、熱きソルボンヌ、犬と猫の清純なるまぐわい、痴話喧嘩と童話作家、会田誠、凡才でごめんなさい、ニュースピーク、フォークナー全集、脱肛もどして糞して早く寝ろババア、ジジイいつまで死んだふりしてるんだもう乱交パーティーは終わったぞ、遺産相続の殺し合い、サディスト、連続殺人鬼と政治家、一人殺せば犯罪で百人殺せば英雄さ、痴漢よ止まれ、裏声で歌え君が代、銀河系愚民パラダイス、スポンジのような食パン、安倍晋三回顧録、グーグル帝国、サルトルの斜視、オークションにかけられたヒトラーの陰毛、ニュートンの柿、スターリンの第二大臼歯、ポルポトのアイフォン、ガンディーの爪、フレディ・マーキュリーの胸毛、プーチンのプリン、島田紳助の深爪、山田風太郎のビキニ、マザーテレサのバッティングセンス、スティーブ・ジョブズ、俺はノージョブズ、まだ君にも伸びしろはある、がんばりたまえ。
畢竟するに「オレ ハ キット カエッテクル」。

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