銃のない物語『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)感想【ネタバレ有り】
『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2019)を見た。この映画を知ったきっかけはなんだったか、覚えていない。多分Twitterでおすすめしている人を見かけたとか、そんなもんだった気がする。個人的な話をすれば、私はジェンダー、特に性的加害を題材にした物語を普段は避けては通っている人間だ。フィクションに限らず、そうした事件を取り上げたニュースも苦手だし、テレビドラマでも痴漢についてのエピソードが出てきたらさりげなくチャンネルを回す。そんな人間だが、TOHOシネマズウェンズデイと折よく映画館の近くに行く用事が重なったので本作を見てきた。
といっても、何も調べずに行ったわけではない。直接的な加害のシーンがないこと、いわゆる「復讐劇」仕立てのストーリーであり、Twitterでは「爽快」と表現する人もちらほらいることを確認した上で、これならいけるかなとおっかなびっくり映画館に足を運んだわけである。
前置きはここまでにして本題に移ろう。銃の登場しない物語としての『プロミシング・ヤング・ウーマン』についてだ。
※以下は『プロミシング・ヤング・ウーマン』の結末に関する重大なネタバレ、及び『ジョーカー』(2019)の内容への言及を含みます。
1. 銃の不在
実は私がこの作品を見ながら感じていたことのひとつは「銃、いつ出てくるんだろう」というものだった。これにはひとつ、明確な理由がある。『ジョーカー』(2019)だ。このnoteは『ジョーカー』についてのものではないから必要最小限しか言及しないが、この作品では銃が大きな役割を果たしていた。拳銃は、主人公のアーサーを虐げるサラリーマンの男たちや彼の憧れだったコメディアンのマレー・フランクリンを殺す凶器となる。
銃は弱い者に力を与える道具となりうる。力では負ける相手にも銃があれば致命的な一撃を容易く加えられるからだ。あえて『ジョーカー』を引き合いに出さずとも、きっとこれには多くの人が同意することだろう。相手とのパワーバランスを一気にひっくり返す力を持った凶器、それが銃である。
しかし『プロミシング・ヤング・ウーマン』に銃は出てこない。まず、主人公であるキャシー(キャリー・マリガン)が物理的な暴力によって自らの手で他者を傷つけようとするシーンは物語の終盤までない。それまでのキャシーの行動は、泥酔したふりをして不届き者にお灸を据えるとか、旧友を酔わせて見知らぬ男と同じベッドで目覚めるよう仕向けるとか、或いはニーナの告発に耳を貸さなかった女性を彼女の娘をダシに脅してみせるとか、そうした「ビビらせる」ことに主眼を据えたものだった。そして物語がクライマックスに入り、ニーナをレイプした男を手錠でベッドに縛りつけたその時、キャシーが手にしたのはメスだった。
銃の不在は台詞の上でも徹底していた。物語の中盤、バーでひっかけた男がキャシーをイカれた女だと罵倒したシーンで、キャシーは「ハサミを持っている女もいる」と口にする。ハサミ。確かに凶器にはなりうるだろうが銃ほどの威力をもった道具ではない。一般市民による銃の所持が可能なアメリカでは「銃を持っている」と言われた方がよほど強烈かつリアルな恐怖を相手の中に呼び起こせるはずだ。それでもキャシーの台詞に登場したのは銃ではなく、ハサミだった。
このように、銃の不在は『プロミシング・ヤング・ウーマン』の物語の中で一貫している。では、なぜ銃という凶器の存在が日本よりもはるかに一般的なはずのアメリカを舞台にしたこの映画で、その存在はなきものとされているのだろう。
2. 山小屋での出来事
物語の終盤、山小屋の2階でニーナをレイプした男と二人きりになったキャシーは文字通り「ニーナの名前を彼に刻みつけよう」としてメスを握る。しかし、彼を拘束していた手錠の片方が外れてしまい、枕を顔の上にのせて膝で押しつぶされ、窒息死させられる。片腕がベッドの柵に繋がれたままの状態で彼女を殺してみせたアルと彼にのしかかられ手足をばたつかせるだけのキャシーの間にある覆し難い力の差が際立つ場面だ。
男女の間にある絶望的な力の差。その象徴がキャシーの死に様だとすれば、この作品に銃が登場しない理由も自ずと見えてくるだろう。埋められない差を描こうとした作品において、その差を埋める力を持った道具の存在はともすれば雑音ともなりうるからだ。
もしあのシーンでキャシーが銃を持っていれば、あるいはそれを初めから使おうとしていれば彼女が死ぬことはなかったかもしれない。しかし彼女は殺されてしまう。圧倒的で明確な男女の力の差によって。そしてその差を主題に据えた物語だからこそ、銃は登場してはいけないのだ。
3. 『プロミシング・ヤング・ウーマン』が描く男女の差
山小屋でのシーンで直接的に描写されるのは男女の間にある身体的な差だ。しかし、物語のなかで描かれる両者の間の差——格差——はそれだけではない。タイトルからしてもそれは明らかだ。プロミシング、つまり将来有望なはずの若い女性——言わずもがなニーナ、そしてキャシーのことだ——がなぜその道を断たれなければならなかったのか。大学を卒業して医者になり幸せを手にしたアルやライアンたちと死んでしまったニーナやキャシーの違いはどこにあったのか。そこにあるのは決して身体的な差だけではない。性的暴行の被害者が周囲から疑いの目で見られること、「お前にも落ち度があった」と言われること。暴行の瞬間を捉えたテープが出回り、それを笑って鑑賞する人間がいること。それらを許してきた社会がもたらした男女の格差がこの作品ではしっかりと描かれている。
こうした社会において、銃のような一発逆転を可能にする道具など存在しない。銃を一発や二発撃ったところで、レイプ犯もそれを面白がってみていた連中も捕まらないし裁かれない。ただ撃った人間が逮捕されるだけだ。
物語のラスト、アルは結婚式の最中にカサンドラ・トーマス殺害容疑で逮捕される。それ以降のことは私たち観客には分からない。もしかしたらアルは殺人罪で裁かれたのかもしれない。彼の大学時代の悪事も明るみに出て、犯行現場に居合わせた友人たちは築いてきたキャリアの全てを失ったのかもしれない。でもそれは1観客である私の希望的観測に過ぎない。アルの行為が過剰防衛として減刑される可能性もあるし、ニーナの事件のことも有耶無耶のまま終わってしまうなんてことも考えられる。もしかしたらキャシーは精神的に不安定な「狂った女」として嘲笑されることになるのかもしれない。
いずれにせよ、物語のその先を私たちも、そしてキャシーも知らない。それを知っているのは浅ましくも生き続けている加害者と「無垢な傍観者」たちだけなのだ。
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