算命学余話 #R92 「縁がある、ない」/バックナンバー
前回の余話#R91では、天印星の性質がどういう理屈から成り立っているのかを考えてみました。天印星は赤ん坊の星ですが、宿命に天印星を持っている人なら誰しも赤ん坊のように無垢だとか、無知無力であるとかいうことではありませんし、それでいいということでもありません。人間は成長する生き物なので、夭折しなければ成人しますし、成人すれば子を生み育てます。或いは子供を生まなくても知恵や技術を身に付け、それを次世代に伝えることで社会に貢献します。これも立派な「育てる」行為です。
しかし、もし天印星を持つ人が赤ん坊のままでいいとするなら、それは大人にならないということであり、成人しているのに次世代を「育てる」役目を果たさない人間は、この世界に必要のない存在として、自然による淘汰の対象となっていきます。人間が生まれてから成長を続けて大人となり、死ぬまで成長・成熟を続けることは、自然の法則に適ったことなので、それを拒む人間は自然に逆らっている、だから淘汰されるというわけです。
赤ん坊である天印星が大人になることを拒んだまま大人になるとどのような醜悪な事態となるかは、前回説明しました。そして、それを回避するためにどのような教育が必要なのかも述べました。それは、天印星の特徴である天真爛漫さを活かしたまま、自ら行動することの苦手をいかに克服するかという手立てであり、成人した天印星を輝かせるための方策なのです。そして算命学は、そのような赤ん坊の資質を持って生まれる人間を認めながら、人生の大半を赤ん坊ではいられない人間がどうすれば社会に存在を許され、この世に役立つ人として歓迎されるか、「育てる」側の人間になれるかを示唆しているのです。
算命学の知識の浅い人の中には、「自分の宿命には(例えば)天印星があるのだから、自分はベッドに寝そべって、周囲の人間に着替えも食事も娯楽も用意してやってもらえばいいんだ」と勘違いしている人がたまにいますが、算命学の思想を正しく理解するのなら、そんなことをすれば運勢を下げに下げて、宿命にさえ書かれていないほど早くて不可解な死を招くことになるので、やめた方がいいですし、実際そのような生き方をしている人は淘汰されています。
例えば昨今取沙汰されている介護施設での殺人事件などは、何もかもを人の世話になって生きる大人がどういう末路を迎えるか、その一例について我々に厳然と提示しているものと、算命学では考えています。自然死ではない異常な死に方は、自然に反する生き方が招くことなので、加害者だけに責任があったとは言えない。このような冷ややかな算命学的視点は一般社会のそれとは異なるものですが、そうした異なる角度から世界を見つめることもまた、算命学の役割なのです。
さて今回の余話のテーマは、人との縁のある・なしについてです。縁という概念は仏教的な因果応報や輪廻、前世との関係性といった認識のされ方がありますが、算命学の云う縁はこれとは少し違います。前世との因果関係の有無については論じず、現世において、誰と関係が深いか浅いか、具体的には配偶者を含む家族の誰と縁があり、その影響によって運勢がどう上下するか、星が輝くかどうかを考えるための技術として使います。そのため、まず算命学で使われているところの「縁のある・なし」が何を指しているのか、正しく認識しておく必要があります。
技術的に込み入った話なので、予めご了承下さい。
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