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算命学余話 #G14 「人生効率化の是非」/バックナンバー

 西洋音楽が人間の可聴域である20kHzまでの音楽・楽器で満足し、その範囲内で絶対音階や和音などを発達させて来た一方で、東洋音楽は可聴域を大幅に超える方向で発達しました。しかし、高音周波を誇る東洋音楽が西洋音楽より豊かで優れている、と断言するのは難しいです。なぜなら東洋音楽の豊かさは人間の耳には聞き取れないところにあり、またその高い音域の対価として複雑な和音を並べる余地を狭めたからです。あちらを取れば、こちらが取れない。東西の音楽は、陰陽の様相を示しています。

 算命学で宿命を算出し、後天運を含めた運勢の上下運動を調べることは、難しくはありません(『算命学余話』基礎編参照)。そしてたったこれだけで人間ひとりの人生の全てが把握できると思ったら大間違いであることも、既に述べました。
 人間の人生は、ざっくり宿命半分、生き方半分です。しかし場合によっては後者の方が大部分になることだってあります。宿命が「100のことができる」と言っているのに本人が怠けて「10しかできない」生き方をしたならば、宿命のウエイトはずっと低くなりますし、逆に宿命が「10しかできない」と言っていても戦争など社会の激変があれば「無理をして100をひねり出す」生き方を強いられ、結果的に宿命からは遠い人生になることもあります。そして宿命からあまりに遠く離れた場合には、淘汰が待っています。

 運勢鑑定をやっていると、依頼人の中に「失敗のない人生」を求めて算命学を頼って来る人がたまに見受けられます。勿論若い人です。まだいくらも社会生活を送っていない年齢なのに苦労したくないらしく、ラクな道筋で「勝ち組」になりたい一心で運勢鑑定を希望する。求めているのは鑑定というより、1から10までの人生のプランニングです。こういう依頼人に遭遇すると、算命学者としては本当にガッカリします。なぜなら、こういう人は自ら生き方を選べるという貴重な権利をやすやすと放棄しているからです。
 算命学者に自分の人生を1から10までアレンジして欲しいというその願望は、自らの意志で人生を構築する喜びや、自立して生きることで得られる価値に目を向けず、他人の言いなりになった方がラクで幸せだという低級な奴隷根性を露呈しています。こういう人に真の幸福が掴めるでしょうか。算命学が認める幸福を初っ端から放棄している人に、どんな人生アドバイスができるというのでしょう。
 こうした依頼人を満足させるような助言はできないので、私は鑑定依頼そのものを断ることしばしばです。これから運勢鑑定で身を立てたいとお考えの学習者には、鑑定を漏れなく引き受けて顧客を満足させる方法をひねり出すか、私のようにあっさり依頼を断るか、より自分に相応しい手法を選択して下さい。

 さて今回の余話のテーマは、人生における効率についてです。冒頭の音楽の話のように、西洋音楽は効率を優先して可聴域外の音源を切り捨てました。人間の耳に聞こえない音なら、無視して構わないという考え方です。
 一方の東洋音楽は非効率を顧みず可聴域外の世界をそのまま残し、代わりに和音を発達させる道を狭めました。どちらがより優れた音楽かは各人意見が分かれるでしょうが、どちらがより可能性を広げているかと言えば、やはり東洋音楽の方に軍配が上がります。なぜなら可聴域外の世界は無限だからです。人間の耳や認識が追い付いていないだけで、そこには未知の世界が果てしなく広がっています。未知の世界とは、宇宙そのものです。東洋音楽はその無限宇宙を切り開く可能性を大いに秘めている。
 これを人生に置き換えても同じです。効率を優先して非効率と見做した世界を切り捨てる生き方をするのか、非効率を厭わず無限世界に可能性を見出す生き方を選ぶのか。どちらが豊かな人生になるのか。勿論、上述の「1から10まで他人に人生アレンジを任せる」生き方は、効率重視の極端な例であり、豊かな人生の可能性一切を放棄する最たるものです。算命学はこういう生き方は推奨しません。ではどういう生き方が相応しいと考えているのか、鑑定者の心得として論じてみます。

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