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精一杯をもう一度!
家庭教師先の教え子が中学受験を終えた。
同じ志望校の午前・午後入試を共に受験し、結果発表はその日の深夜。
1回目は合格、2回目は不合格という結果。ご家庭からも、
「これって、合格ってことでいいんですよね…?」
というLINEが来たりと、何だか締まらない結末。
まあ、合格は合格だから問題はないのだけど、1回目でベストを尽くした結果、2回目では気が緩んだのかなと思わなくもない。
真相は知る由もないが、こういうのの2回目が意外とやりにくいのは確かだ。
端から見る分には、1回目は硬さがあってベストパフォーマンスが発揮できないかもしれないが、2回目になれば緊張もほぐれ、1回目で今ひとつだった点を省みてより良いパフォーマンスが引き出せるのではないかと思えそうなものだ。
ただ、真剣勝負というのは普通2回目の存在など考えない。2回目があるさと考えて1回目に出し惜しみがあるようなら、それは本当の意味での真剣勝負とは言えない。だから一発勝負に全てを賭けるつもりで臨む。
そのとき、自分にとって最高のパフォーマンスができたと実感できたなら、それはとても素晴らしいことだ。勝負のために全力で準備し、そして挑戦を成功させる。その姿勢は誰もが称えるべきものだろう。
けれども、実は1回目は練習で2回目が本番だったと知らされたらどうだろう?1度目に全てを賭け、最高の結果を叩き出した。必然的に、2回目でそれを上回るのが難しくなるというのは誰でもわかる。そのとき、気を取り直して1回目と同等以上の熱量や集中力を持って2回目に挑むことは非常に難しい。
もっとも、現実はこうした「やり直し」の連続だ。
たとえば、学校などでは同じ授業を複数のクラスで実施しなければならない。最初の授業で渾身の授業を展開し、非常に上手くいったとしよう。それと同じことをあと何回か繰り返さなければならないという現実を目の前に、得も言われぬ徒労感を覚えることもある。初心をもって無我夢中に挑むのと、既に手に入れた成功体験の亡霊が付き纏う中で2度目以降のパフォーマンスを試みるのとでは、気の有り様がまるで違ってくる。
これは、あらゆる仕事について生じ得る現象かもしれない。1年間死に物狂いで駆けずり回り、勉強し、今の自分にとって考えられる最上の営業成績を叩き出す。次の年も同じことをすれば同じ結果が得られるかもしれない。ただ、することは同じであってもそれを同じ熱量でできなかったらどうだろうか。正解を知りつつも、なおそこに気の緩みを持つことが許されない。それはまた別種のプレッシャーとなり、俺達にのしかかってくる。
同じことはスポーツ、芸能、試験、就職活動といったあらゆる「勝負事」において起こり得るだろう。1つの勝負に対して真剣に挑む者にこそ、2度目の難しさは重くのしかかってくる。
ならば、1度目から全力で挑まなければいい。本当に重要な勝負所を見極めて、そこで全力を尽くすべく出力を調整する。それも一つの考え方だ。いわゆるピーキングというやつで、主要な大会を控えたアスリートなどにとっては当然の考え方だろう。
ただ、それはあくまでもベストの実力を発揮するためのアプローチであって、実力の底上げに繋がるかどうかは疑問がある。本番で実力通りのパフォーマンスが出せさえすれば勝利が見込めるという境遇にあるなら問題はない。けれども、実力がそもそも足りていないのであれば、成すべきことは本番に向けてひたすら地力を伸ばしていくことだろう。過去問演習で合格最低点が取れるだけの力も無いのに、本番で最高の力を出すためになどと言って普段の演習で手を抜くような受験生に合格が訪れることは考えにくい。
そして、密度の高い練習ほど地力の積み増しに効果があるのもたやすく予想できることだ。その究極形態が本番における真剣勝負の積み重ねにほかならない。ゆえに、実力不足を補いたいと望む人なら本来はあらゆるパフォーマンスの機会を捉え、真剣勝負を挑むべきなのだ。
もっとも、想像してみればわかると思うがこれはかなりしんどいことだ。たとえば楽器の練習をするにしても、1回1回を本番だと思って真剣に演奏するのは精神的にかなり難しい。聴衆もいなければ、間違えたところで金を返せと言われるわけでもない――そんな状況で、一度きりの最高を演じろと求められても、どうしたって甘さは拭えない。
だからこそ、否応なくベストパフォーマンスを求められる本番の存在は、俺達の実力を大きく飛躍させる機会として貴重なものになる。演奏で言えば、1週間の個人練習よりも1回のリハーサル、1か月のリハーサルよりも1回の本番ステージの方が得られるものが大きいと感じる。(もっとも、個人練習とリハーサルとではそもそも練習の目的が異なるので一概には言えないが……)
実力が足りていないにもかかわらず本番で全てを出し切れないというのは、そもそもが勝負のスタートラインに立ててすらいない。1度目で失敗しても2度目で挽回すればいいやという心持ちは、安定して実力を発揮するという面では好ましい効果もあるだろうが、成長という観点から見ればせっかくの好機を無駄にしている。それは勝負ではなく練習に過ぎない。練習ばかり重ねていても実力は伸ばせない。
だから、成長速度を最大にしようと思うなら、1回1回の勝負に自分にとっての最高を求めることは最低条件だ。もう一度同じパフォーマンスを繰り返すことなど考えられないという真剣さと熱量で挑戦できるか。そこがまず、人の成長を左右する分岐点になる。
ただ、トップ中のトップはさらにそこからが違う。1回目の挑戦に全力を尽くし、精力を使い果たして倒れ込む。そこに2度目の挑戦が告げられる。そのとき、彼らは再び心に火を灯し、1回目以上のパフォーマンスを見せてやろうと目をギラつかせる。一度成し得たことが次には出来なくなるという事態を恥じ、ベストで満足のいくものであったはずのパフォーマンスになお向上の余地を探ろうとする。
そこにあるのは、ただ高みを目指したいという単純な欲求だ。その目にはもはや勝ち負けも、成功も失敗も重要なものとして映っていない。ただ精神と技術を研ぎ澄ます。その刃で何を切ろうとしているのか、それはどうでもいいことなのだ。
こうやって書いてみると、繰り返される真剣勝負に常に最高の自分をもって挑み続けようとする精神は、ある種狂気じみたものだと感じられてくる。それは誰にでもできることではないし、365日そのような心境で日々を生きれば精神が蝕まれてしまうかもしれない。
でも、そのような人は確実に存在する。そして、場合によっては俺達はそうした人間と関わり競わなければならない。特に自分が高みに上り詰めたいのならば。
逆に言えば、勝負から降りる選択肢というのもあっていいと思う。今の時代、「成長」という言葉には倫理的・道徳的な響きがあって、それを目指さないことが悪であるかのように思われているけれど、現実に「成長」を続けるのはそんなに生易しいことじゃない。自分の限界を追求するのではなく、求められるタスクにおいて8割程度の力で安定したパフォーマンスを継続する環境に身を置くという選択は十分に理解できるものだし、常に真剣勝負を挑まなければ気が済まないような人間のみで構成される社会というのも、それはそれで不健全かつ息苦しい。俺達がコンビニやファミレスを利用するとき、ギラついた「成長」への気迫などとは無縁の無機的で平板な接客に癒やされているという側面だって明らかに存在するのだ。
もっとも、勝負から降りることは当然ながら栄誉や金銭の獲得を一定程度諦めるということでもある。そこはもう、個人の選択だ。ただ、努力に対する熱量のグラデーションこそが社会の多様性と安定に繋がっている側面を見落とすべきではないと思う。
ギリギリの真剣勝負が続けられる、全力を尽くして倒れつつもなお立ち上がり、さらに生命の火を燃やすというのは、ある種異常な精神だ。そうした人は当然尊敬に値する。
ただ、ほとんどの人の精神はそんなに頑強にできていない。自身のベストを尽くしたと満足すれば再び同じ熱量を取り戻すのを難しく感じる人も多いだろうし、そもそもそこまでして「成長」を望まない人だっている。各々がその努力の帰結を受け入れるなら、いずれの選択も非難されるべきではないだろう。
ただし、「成長」を渇望して真剣勝負の機会を求める人がそれを遮られる状況は望ましくないし、「成長」の厳しさを真に理解していない人が「成長」を望まない人に対して必要以上の努力を強要するのも筋違いである。真剣勝負を求める気持ちの強さに応じて、それに見合うだけの機会や成果を正しく与えること。それは時として教育者の役割でもあり、あるいは共同体や国家の役割でもある。
とりあえず、教え子が1回目で合格し、2回目で不合格だったという結果について、俺自身はまずまず悪いことではなく、落とし所としてちょうど良かったのかもしれないと思っている。