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コンドルは日本へも飛んでいく

様々な「コンドルは飛んでいく」を紹介するというマニアックな試みの向かう先はついに日本へ。
知っている人は知っているが、知らない人はおそらく全く知らないのがフォルクローレの世界。実は、日本にはかなりの数のフォルクローレ愛好者が存在する。
ただ、残念なことに同好の士でない限りまず話が通じない。それどころか「何それ?」という反応が十中八九想定され、気恥ずかしさと説明の面倒さを感じてしまうためになかなか自分の趣味について語る機会がない。そんなわけで、人知れずフォルクローレを聞いたり演奏したりする人が、もしかすると皆さんの周りにもいたりするのかもしれない。

さて、日本に最初のフォルクローレブームが訪れたのは1970年代だと言われている。それ以前にもアルゼンチン・フォルクローレの巨匠アタウアルパ・ユパンキが来日公演を行ったりしているが、様々なアーティストの演奏が幅広く聞かれるようになったのはやはり70年代になる。サイモン&ガーファンクルによる「コンドルは飛んでいく」の世界的ヒットは当然日本にも及んだし、フォルクローレ公演が盛んだったフランス(ポール・サイモンもパリでロス・インカスの演奏を知ったのだった)を経由し、シャンソン歌手によってアルゼンチンのフォルクローレが紹介されたりした。「コンドルは飛んでいく」と同じくらい知名度の高い「花祭り」もこの類だ。
以来、日本には脈々とフォルクローレ鑑賞や演奏の文化が根付く。たとえば、「コスキン・エン・ハポン」というアマチュアフォルクローレ奏者の祭典のようなイベントがあるのだけど、1975年から今日に至るまで福島県の川俣町で毎年一度(コロナ禍での中断はあったものの)開催され、期間中には全国のフォルクローレグループが小さな町に集って来る。ほかにも、南米文化と縁の深い地域では小規模ながらもフォルクローレの演奏会が定期的に開かれるなど、知らない人には想像も及ばないであろうほどにフォルクローレは日本に広く深く根を張っているのだ。

そんな中でも、やはり「コンドルは飛んでいく」は別格の存在だ。フォルクローレの入門曲といった扱いで、多くのアマチュアグループは演奏会となると大体この曲を披露することになる。(もっとも、その演奏は決して簡単じゃない)
ただ、ほとんどの場合インストゥルメンタル・アレンジでの演奏となり、歌を入れるグループとなるとごく少数だ。歌となれば、やはりサイモン&ガーファンクル版のイメージが強いだろうか。こちらの場合、むしろフォルクローレ愛好者というよりもフォークミュージックやニューミュージックの愛好者に好まれている感がある。(むしろ、フォルクローレ愛好者の中にはあれを「偽物」扱いする人も)
フォルクローレ曲は上述の通りシャンソンやラテン・ポップスをフィールドとする歌手によりカバーされることが多かったのだが、「コンドルは飛んでいく」に関しては演者の裾野がより広いことも特徴だろう。


さて、前置きが長くなったが、いよいよ日本の「コンドルは飛んでいく」の紹介に入りたい。
まずは、サイモン&ガーファンクル版のカバーから。

サイモン&ガーファンクルと同じく極上のハーモニーが売りのデュオ、狩人による歌唱。まあ、特に意外性はない。強いて言うなら、ハネ系のリズムにアレンジされているのと、絶妙に格好悪いフィルが特徴か。

むしろ興味深く楽しめるのは、ポール・サイモンの歌詞を和訳した日本語詞の歌の方だ。様々なバリエーションがあるのだが、最も原曲の詞に忠実なのは越路吹雪さんや坂本スミ子さんが歌っているこの歌詞だろう。

かたつむりより雀がいいな もしもなれるものなら
釘よりもハンマーがいいな もしもなれるものなら

遠いところへ行きたい 舟で行きたい
人は土にいつも縛られて泣くのだ かなしそうに

道よりも木の方がいいな もしもなれるものなら
足のした大地ならいいな もしも出来ることなら

遠いところへ行きたい 舟で行きたい
人は土にいつも縛られて泣くのだ かなしそうに

ご覧いただければわかると思うのだけど、この歌詞、初めて見ると実にカッコ悪い。ほぼそのまんまポール・サイモンの詞の直訳じゃん!という感じ。
まあ、この詞に限らないのだが、「コンドルは飛んでいく」に関しては多くの人が他者の手による訳詞に納得がいかないのか、わざわざオリジナルの日本語詞をつけて歌っていたりするのが面白い。
以下、幾つかのバリエーションを紹介しよう。

まず、唱歌版「コンドルは飛んでいく」のスタンダードであると思われる歌詞。

初音ミクさんの歌唱バージョンも発見!

ポール・サイモンの歌詞を単に和訳するだけではなく、その一歩奥に垣間見える精神性にまで足を踏み入れたような詞がこちら。


実は、日本語詞はサイモン&ガーファンクルの歌に基づいていない創作が結構多い。やはり「コンドル」や「アンデス」が出て来ないことに納得がいかないか、それらのほとんどは「アンデスのコンドル」を歌っている。こんなところにも日本人のフォルクローレ好き、アンデス好きが窺えて面白い。
次は、そうしたオリジナル版を紹介していこう。

まず、前回紹介したスペイン語スタンダード版に似た趣の歌詞から。コンドルとアンデスの自然をいきいきと描いた歌。

人間の愚かさや卑小さをコンドルの雄大さと対置し、より内省的に仕立てられた歌詞。アレンジがカッコいい。


さて、意外なことにインカ帝国の滅亡を哀惜する日本語詞も多い。フォルクローレに嵌っていくとどうしても意識せざるを得ない出来事なので、自ずと関連付けたくなってくるのだろう。

まずは、「灰色の瞳」のカバーで日本におけるフォルクローレブームに一役買った加藤登紀子・長谷川きよしデュオによるこの歌唱。「第一部」だけではなく「第三部」まで歌われている。

次はフォルクローレを基調とした伴奏にクラシックな歌唱を乗せたアレンジ。途中でスペイン語詞が入ったり、「第三部」がスキャットで歌われたりと、なかなかに凝った構成。

クラシック調のアレンジに歌謡曲風の歌唱。インカ帝国を歌うような詞だと、やはりしっとりとした歌声が様になる。


いやあ、もう掘り返すときりがない。歌が入っているカバーはインストのものに比べればかなりの少数なのだけど、それでも検索を続けていると出るわ出るわ。しかも、サイモン&ガーファンクル版の和訳ではなく、アンデスやコンドル、インカ帝国を想起させる歌詞を自ら日本語で手掛ける人の多さに驚いた次第。
やっぱり、フォルクローレ好きにとって「コンドルは飛んでいく」はアンデスの音楽でなければならないのだなあ。

それはそうと、越路吹雪さんらによってカバーされているバージョンの日本語詞。「ダサい」だなんて紹介したのだけど、改めて他の日本語詞と聴き比べてみると、ダサいどころか非常に秀逸だなと思うようになった。
詞はただの詩ではない。歌の旋律に乗せられた言葉が力を持たなければならない。そのためには、メロディーを構成する音の高低や長さと言葉のイントネーションとがきれいに噛み合っていることが必要になる。
その点で、越路吹雪バージョンの歌詞はサイモン&ガーファンクルの詞をほぼ忠実に再現しつつ、見事な言葉選びがなされていると思う。母音の占める比率が高い日本語の特性を逆に活かす形で、必要最小限の言葉をゆったりとメロディーに乗せ、間延びしがちな節回しを上手く伸びやかさへと転じている。そのうえ、言葉のイントネーションと旋律の進行が違和感なく溶け合い、歌詞がごく自然に聞こえる。一見簡単な歌詞だけど、これは相当練り込まないと出来ないものだと感じた。
それに対し、他の歌詞は「詩」を上手く作ろうとしすぎた印象が強い。選ばれた言葉はなるほど詩的なのかもしれないが、旋律とイントネーションとの兼ね合いに不自然さがあったり、「コンドル」や「アンデス」という言葉を入れようとしてリズムが詰んでしまっているように聞こえるのだ。
実際、カタカナ言葉の「コンドル」や「アンデス」とこの曲の旋律との相性はあまり良くないと思う。スペイン語なら合うような気がするのは、同じく母音の存在感が強い言語であるにせよ、やはり「シラブル型」言語と「モーラ型」言語の違いが存在するからだろう。スペイン語なら「コンドル」と「アンデス」は「cón-dor」や「an-des」のように2音節で言い切れる言葉になる。それに対し、日本語だと「コ・ン・ド・ル」「ア・ン・デ・ス」と4拍を費やさなくてはならない。発音上は些細な違いにしか聞こえないかもしれないが、歌詞にすることを考えると結構大きな差異になる。

まあ、だからといって色々な人たちが思い思いに詞をつけることの素晴らしさが失われるわけじゃない。歌への思いというのは、歌唱や作詞の技巧よりもずっと根源的なファクターだ。むしろそれが許されるような懐の深さというのもまた「コンドルは飛んでいく」という名曲の特筆すべき魅力なのだろう。

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