「悲しみ」不在のディストピア
長野県中野市で起こった殺人事件を最初に知ったとき、覚えたのは衝撃と戦慄だった。
その後、報じられる事件の背景や詳細を聞いて心の中に湧き上がるのは犯人への「悲しみ」の感情だ。
この凄惨な事件で加害者に対し「悲しみ」を感じるとは何事かと非難されるのは百も承知。特に遺族の方々にとって、犯人はもちろん許しがたい存在だろう。言うまでもなく、「馬鹿にされた『ように感じた』」ことを理由に人を殺めてしまうのは狂気以外の何物でもない。まして、職務としてただ駆けつけただけの警察官に対しても凶行に及ぶなど。仮に悪口を言われたのが事実であったとしても、そうした事情ゆえに犯人の刑事罰が軽減されるべきだという話にはならないし、してはならないだろう。
でも、だからこそこの事件に「悲しみ」を感じざるを得ない。男は甘やかされて育ったと言えるのかもしれない。社会での孤独と孤立は自分自身が招いた帰結だったのかもしれない。彼の人生におけるそうした様々な流れがやがてひとつに束ねられ、誰からも許されようがない罪深さの淵へと男を押しやっていってしまったことは、「悲しみ」でなくて何だろうかと思うのだ。
これを「悲しみ」でないと考えられる人は、男の自業自得を思うのだろう。甘やかされて育ったとして、彼には自身の軟弱さを乗り越えるために己を陶冶する責務があった。孤独や孤立を招かぬよう他者との絆を大切にして良好な人間関係を保つための努力が必要だった。そして、たとえ誰かが自分の孤独を嗤ったように聞こえたとしても、それは自身が研鑽を怠った結果であり、甘んじて受け入れ耐え忍ぶべきであった。そのように考えるのだろう。
それは正義や秩序という観点に立てば、とても真っ当な考え方だ。いかなる事情があったにせよ、それを理由に他者を殺めてしまうような人に社会での居場所を与えることはできない。平和な社会を求める以上、それを乱したり破壊したりしようと試みる者は積極的に排除されなければならない。さもなければ、次の被害者は俺達自身になるかもしれないのだ。
だからこそだ。その、決して越えてはいけない一線を男に越えさせてしまった流れの抗い難さというものに、俺はやるせなさを感じてしまう。俺達は時に自分では選びようのない環境を与えられ、心身の強さに関わる遺伝的形質を与えられ、それらを所与の条件として生きながら大抵はその行き着く先に責任を負わなければならない。
時にその条件は苛酷だ。順境にある者が流れの快適さにただ身を任せ、どこぞにある岩場や滝といった危険に無知なままでいられる一方、常に身を打ち付けられないように、崖下へと放り出されないように舵取りを求められる人達もいる。そんな中、岩に身を砕かれてしまったり、滝へと続く引き返し難い流れにとらわれてしまったりした者は「下手くそ」、「未熟だ」といった蔑みの対象にすらなってしまう。
でも、その境遇というのは本当に紙一重だ。俺達が安穏と生きていられるのだとすれば、それは自身の努力以上に平らかな流れにたまたま乗っている、あるいは乗る機会に恵まれたという「幸運さ」の賜物に過ぎない。もちろん、順境を手放すまいと、溺れまいと注意は払い、努力もする。けれども、その切迫感や厳しさは一つ判断を誤れば直ちに人生が終わってしまうような流れにおけるそれとは比べ物にならない。
今回のような事件を耳にするたび、ふと思うのだ。「一歩間違えれば、あれは俺だったかもしれない」と。
とかく人間というのは他人を蔑むのが好きな生き物だ。晩婚化も進み、多様な生き方への理解がまだしも得られる都会と比べれば、地方のコミュニティで「三十を過ぎて独り身」であったり、「他者との交流を持とうとせず孤立した存在」であったりすれば、色々と含みのある眼差しを受けるであろうことは想像できる(あくまでも想像に過ぎず、事実かどうかはわからない)。地元の名士の息子ともなれば、敬意を払われる裏側でやっかみを向けられることもあるだろう。
ままにならない人生に直面し、精神的にも不安定さを抱える中で、「誰かに嗤われているのだろう」という猜疑を抱えながら日々を過ごす。そうした現実に直面したとき、俺達は何をすればいいのだろうか。
今回の事件がそうだと言いたいわけじゃない。事実はわからない。ただ、「仮に」そうした境遇に置かれた場合を考えてみてほしい。十分に、多くの人に起こり得る仮定だ。
嘲りや蔑みはそれ自体罪ではない。特に、「三十を過ぎてまだ独り身だなんてねえ…」といった「単なる事実」が侮蔑の表情や口調とともに言葉にされるようなとき、それを社会的に罰する法は存在しないし、そのようなものを定めるわけにもいかない。自分自身でも気に病む事実や境遇を嘲り、巧妙に塩を塗り込んで愉しもうとする悪意に出くわしたとき、俺達にできることは何なのか。
ある人はそこで相手に復讐しようと暴力を振るったり、より凄惨な手法で社会的に傷つけたりしようと考えてしまう。それは犯罪だ。罰せられなければならない。でも、それが許されないのだとすれば、俺達にできることは?
もちろん、色々な選択肢を考えることは可能だ。社会性を身につける努力をする、周囲から認められるよう仕事に励む、婚活に取り組んで伴侶を見つける、心理療法や認知行動療法を受けて精神面の負荷を軽減する、家族や友人に相談する、他者を消し去るのではなく自分自身をこの世から消してしまうことを選ぶ……など。
ただ、理屈の上で選択肢の存在を想定し得るということは、直ちにそれが選べるということを意味しない。正しい選択が簡単にできるなら、ゲームや実社会で誰でも無双できる。実際には、その選択肢が見えなかったり、見えたとしても他の選択肢の方が魅力的に映ってしまったりして適切な選択ができないところに人生の難しさというものは存在する。逆境に置かれ、日々の困難への対処に心を砕く中で視野が狭くなり、判断力も低下しているような場合には尚更だ。
将棋で自陣の玉が詰んでしまうのは、無数に考えられる手筋の中でそうとは知らず悪手を選び、その選択が重なってしまう結果だ。それに人生をなぞらえて「詰んだ」と表現するのは、本当に言い得て妙だと思う。
誰もが悪事をはたらきたい、罪を犯したいと思って生まれてくるわけじゃない。ただ、生きていく中でほんの少し何かを間違える。その間違いを修正しようと思って、より大きく流れから外れてしまう。気が付けば、流れの先には巨大な岩が待ち構えていてもはや避けるすべがない。全てとは言わないまでも、罪と呼ばれるものの多くはそうして起こっていくのだろうと思う。
けれども、俺達はそこに至る人の来し方を知らない。だから、「あれは乗っちゃだめな流れだよな」とか「もう少し手前で気付いていれば避けられたはずだ」とか、その人がまさに身を砕かれた瞬間だけを切り取り、他人事として論評を行うのだ。
社会において人が罪を犯したとき、その人が裁かれるべきなのは言うまでもない。凄惨で不幸な結末に至るまでの事情が裁きに大きく影響するようでは司法は成立しない。その意味で、法律上の「犯罪」とは本質的に救いのないものだ。
ただ一つ救いがあるとすれば、社会が罪人の境遇に「悲しみ」を捧げることなのではないかと思う。それは情状酌量を求めることとは全く異なる。むしろ、法が決定する矩を越えた情状酌量が絶対的に不可能だからこそ、そこに「悲しみ」は生じ得るのだ。
「悲しみ」は「物語」から生まれる。ある人がどのような境遇に生き、どのような困難に直面し、どのような選択を重ねてきたのか。その結果が取り返しようのない罪という結末に至ることで「悲劇」は完成する。その悲劇を想像の中で、あるいは仮想の体験として自らたどることによって、俺達はそこに「罪人であったかもしれない自分自身」を投影し、「悲しみ」を得るのだ。
古代ギリシアで「悲劇」の上演が好まれたり、「罪を憎んで人を憎まず」といった言葉が生まれたりしたのは、昔の人が罪の背景にある「悲しみ」への感受性を持っていたからなのだろうなと思う。
翻って、罪に対する「悲しみ」の存在しない社会とはどのようなものだろう。それは、まさにSNS上での炎上や匿名による批判の殺到が象徴する現代のような社会にほかならない。少なくとも、俺の目にはこれがディストピアにしか映らない。
よく言われることだが、ネット上で吐かれる言葉が現実に他者と相対する中でそのまま使われることは考えにくい。そこには色々な理由がある。まず、目の前の相手をリアルに傷つけてしまうこと。たとえ、相手に否があろうが誰かを傷つけるのは、少なくとも多くの人にとって快いことじゃない。また、自分が反撃に遭う可能性を排除できないこと。それは逆上した相手による暴力的な行為や言葉かもしれないし、論理的な反駁を伴う非難という形をとるかもしれない。
つまり、対面でのコミュニケーションにおいては傷つくことや傷つけられることへの想像が生々しくはたらくがゆえに、俺達は相手の置かれた状況や自分自身の行いに思いを馳せながら言葉を慎重に選ぶことになる。
他方、匿名で言葉を発し、相手からの反撃に晒されるリスクの小さいネット上の言論においては、俺達は安全な場所から他者の罪をあげつらうことができる。そして、「暴力的だが正しい言葉」を受けて傷つく人の表情や人格を意識すること無く、単に問題となる言葉や振る舞いだけを切り取って「傷つくに値する」という客観的な裁きを下すことができる。そこに「悲しみ」の入る余地は無い。
それは、ある意味で「正義」に満ち溢れた社会だ。悪いことは悪い、罪は罪として正しく裁かれなければならない。そこに同情など入るべきではない。
罪とは無縁の善良な市民にとって、それはむしろ頼もしく理想的な社会とさえ言えるかもしれない。
けれども、我が身を罪を糾弾する側ではなく罪を犯す(かもしれない)側に置いてみるとどうだろう。ふとした一度の過ちが招く常軌からの逸脱。挽回しようと足掻くうちに、より脱出の困難な深みへと嵌っていく。そうしてある日、自分の人生が「詰んで」いることに気付く。そのとき、悲しんでくれる者は一人もいない。聞こえるのは「当然の報いさ」という声ばかり。
もちろん、誰かが悲しんでくれたところで罪が不問に付されるわけでもない。相応の罰は受けねばならない。でも、救いはある。自分が歩み、悲劇的な結末に至ってしまった人生が「物語」として誰かの目に止まる。同じく死刑を宣告されて人生を終えるのであっても、そこには大きな違いがあるはずだ。
「悲しみ」があったからといって、表面的に何かが変わるわけじゃないかもしれない。だが、罪だけを見てその罪へと至る境遇のあやに目を向けない社会というのは殺伐としたディストピアでしかない。
そこに欠けているのはおそらく、罪を問うている相手がもしかすると自分でもあり得たかもしれないという想像力だ。置かれた境遇がすべて自分の責任と実力によって決まるのだと疑わないからこそ、俺達は平気で罪を犯した人を詰り、同時に己の恵まれた境遇を保つことに汲々とする。
もし、ある人が決定的な罪を犯す前にその「悲しみ」を理解されたならば、彼(または彼女)は逃れようのない急流の一歩手前で引き戻されるかもしれない。自身が犯した罪を繕おうとして罪を一層重ねるのではなく、率直に罰を引き受けて歩み直す覚悟が定まるかもしれない。
そういった意味でも、悪や罪といったものの背景にある「悲しみ」というものに、俺達はもう少し目を向けても良いのじゃないだろうか。
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