説得力/歴史とは勝者の記憶
こんばんは。さんかく素直です。
久しぶりの投稿になってしまいました。
今日は教育や福祉の話題ではなく、情報整理と発信などにまつわるスキルについて纏めたくなりました。
私の3割に関する記事です。割と内向きの自分語りになります。
※3割とは…↓
最近仕事の講演会で使う資料をよく社内でやり取りしていて、引用元・出典などのチェックにも関わっています。
データはたくさんのことを教えてくれますが、語るのは人。バックグラウンドの理解次第でコメントは変わっていきます。
出典チェックでは、本当に書いてあるかということだけではなくて、どういう文脈の中の一文なのか、調査データなのか…。
この資料では説得性にかけるのか、伝えたいことを表現するのに間違っていないのか?かなり神経を使います。
データも発言も誰かの残した歴史
なぜ神経を使うかというと、データも発言も誰かの残した歴史であり、事実とは異なる可能性があるからです。
※今回、説得力とタイトルに入れましたが、信頼性を正しく持ってもらうための説得力とお考えください。自分のエゴを誰かに押し付けるような説得力を求めている方には退屈な記事となります。
歴史?事実?説得力???
さて、私は学生時代、学際領域の研究をしていたこともあって、歴史や統計・経済・経営・哲学など幅広い学問を学びました。
その中でも、大学生になってからやっと初めて興味を持った学問が歴史でした。
今まで学んできた歴史には説得力がないなーと思っていたのですが(嘘がホントかわからないから。ディズニーやジブリと何が違うのかわからなかった)、初めて歴史の面白さと、ストーリーを疑って良い理由を見つけてしまいました。
歴史は誰のものか。
仕事で引用データなどを見るときもそうなのですが、世の中でエビデンスが取れるものというのは限られています。
そしてほぼ、全てが自分のオリジナルアイディアということは残念ながらありません。
誰かのデータや、発言を混ぜて、自分なりの考えを導く。
判断自体は自分の行動そのものですが、判断材料というのはほぼ全て何かの引用であり参照であることが多いかと思います。
知識のブレンド、或いは、ほんの少しのオリジナル。これが何層も何層も重なって人類の発展に至っているかと思います。
じゃあその、今を形作っている過去は一体誰の所有物なのか。どこまで引用を遡ることができるのか?そして遡った引用は全て正しいのか...…。
考えると、少し頭がおかしくなりそうです。
歴史=勝者の記憶。
これを教えてくださったのは私の恩師、某大学の名誉教授の方です(ご本人から承諾をとっていないので、ここでは曖昧な表現にさせていただきます。)。当時流行り始めたグローバルヒストリーを学ぶという小規模ゼミでした。
歴史というのは、残っている情報、残すことができた情報の積み重ねであり、過去の事実=歴史とはならないということを教わりました。
簡単に言えば、戦国時代の戦の原因は誰が残したか→勝者が残した記録ではないか。ということです。
当時、同じ歴史に対して様々な国や文化背景の記録を照らし合わせて読み合わせたり、変わった歴史の本から世界を眺めたり、大変愉快な授業でした(序盤の3回目くらいでは少し学生が減ってしまっていましたが)。
お茶の歴史から世界を眺めたり、イスラムの記録から世界を眺めたり、見える景色は随分変わるものでした。
引用元が事実とは限らない。
私が引用物をチェックするときには、都合のいい切り出しになっていないか注意しています。
もちろん私自身が事実か歴史なのか判断がつかないことも多々あるのですが、そういう場合は「Aの材料とBの材料から導くと、Cという可能性が見えてきます」と表現するようにしています。
仮説から導いていますよということを忘れない
タイトルに戻ります。
これが、私の説明スタイルです。
言い切ったほうが説得力があると感じる方もいるかもしれませんが、私はそういう方を見ると逆に胡散臭いと思ったり、勉強不足なんだろうなと感じます。
私のスタイルが万人受けするかはわかりませんが、少なくとも信用いただいているんではないかと思います。
普段、人生相談を受ける身としては、無責任なことは言えないので
なるべく素の自分の感情を包み隠さずかつ、論理的にお話するように心がけています。
話し方をトレーニングするのは小手先の技術のようですが、伝えたいことをうまく伝えるためには知識と表現方法、情報選別が間違っていないか確認することが大切かと思います。
明日も思ったことが真っ直ぐ伝えられるように。
今日は少し今までと違う視点でノートを書いてみました。
ライフコンサルタント/さんかく素直
https://note.com/sankaku_life
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