サリー、魔法使いサリー。あなたは今でもわたしのトモダチです。
1990年。5歳。シンガポール。
POLICE STATIONの前で父と母は見たこともない顔で警官に詰め寄っていた。
「ロスト!!バゲージ!!ドロボウって英語でなんていうんだ!?」
私はアイスをなめながら、その様子を見ていた。
初めての海外旅行先はシンガポールだった。
覚えていることはとても少ない。
父が異様に張り切っていたこと。飛行機に乗った後の体がとてつもなく重いこと。マーライオンを見て兄と姉とケラケラ笑ったこと。
それから、サリーのこと。
5歳の頃の私は、母に言わせるととても変わった子だったという。
一瞬でふらふらといなくなる。気がつくと知らない人のところにいて、「トモダチトモダチ!」と言いながら手をつないだり、おやつをもらったりしていたそうだ。人懐っこいを通り越して、距離感がちょっとおかしい子。今まで危険な目に合わずによく生きてこられたな、と思う。
異国の地に降りたってもその性分は変わらなかったらしく、少しくらい外見の違う、しかも言葉が通じない人でもお構いなしで「トモダチ!」と近寄って行ったそうだ。母はとにかく私を追い回すのに必死だったと語る。
そんな5歳の私に心を許してくれたのがサリーだ。
サリーはシンガポールで人力車みたいなのをひいていた、と記憶している。それに乗せてもらった私は嬉しくて、すっかりサリーになついた。
当時大好きだった魔法使いと同じ名前。「サリー!トモダチトモダチ!」と言ってサリーからずっと離れなかった。写真を撮ってもらい、その写真を買った。サリーもまた、「トモダチ=Friend」という父のつたない英語を理解してくれ、ずいぶんと私のことをかわいがってくれた。
サリーは小麦色の肌をしていて、ヒョロリと背が高かった。髪は短くて、半そでだった。人力車という観光客相手の仕事だったためか、少し日本語ができたんだと思う。
とにかく私はシンガポールにいる間中サリーサリーと大騒ぎして、観光そっちのけでサリーと一緒にいたがった。何日か滞在したはずだけど、シンガポール旅行の中で何か見たり聞いたりした記憶はほぼない。私の記憶のほとんどが、サリーで埋め尽くされている。
どうしてか分からないけれど、サリーと長い間一緒に過ごしたような気がしている。人力車に何度も乗せてもらったのかもしれない。サリーはお仕事があるし、日本からやってきた小さな女の子にそんなに長時間付き合っていられるはずがないのだから。
マーライオンの口から光る水が吐き出されているのを見て兄妹で笑い合った。翌朝には帰らないといけない。大好きなサリーとあっという間に別れなくてはならなくて、帰りたくないと泣いた。
車の三列目に乗せられて、スライドドアが締まる光景。ドアの向こうにいるサリーが笑顔で手を振っているのを覚えているけれど、その思い出は悲しみと共にある。
サリーとお別れしてから、行きたくもないショッピングモールに行った。
私は父に連れられトイレに向かった。母は、トランクを任されショッピングモールのベンチにいたはずだ。
そして私が父とトイレから戻った時。
「トランクがない!」
母が青ざめた顔で言った。
盗まれたのだ。
家族5人分の服や何やらすべてが詰まったトランクが丸ごと盗まれた。
母たちの手にはアイスがにぎられていた。
父と母は警察に向かい、事情を必死で説明した。あんなに慌てている両親を初めて見た。だけど小麦色の肌をした警察官は、残念ながらとても親身になってくれるようには見えなかった。「何言ってるか分からないね!」そんなジェスチャーだった。5歳児がアイス片手にそう感じたのだから、きっと本当にそうだったのだと思う。
そこから何がどうなったか、詳しくは分からない。だけど、私は再びサリーに会えた。サリーが、警察官と両親の間に立って何か話している姿を覚えている。
不安そうな顔をしていたのだろうか、時折わたしの方を見てにこっと笑って「トモダチ!ダイジョブダイジョーブ!」と励ましてくれた。
ここで私の記憶はおしまい。
もっと大きくなった時、「あの時サリーがいなかったらどうなってたか……。あんたがサリーとトモダチになってくれたから良かった。」と母が言っていたのを聞いた。たぶん、サリーが助けに来てくれたんだと思う。……どうやって?電話番号を交換していたのかな。奇跡的にパスポートと財布だけは父のジャケットに入っていたらしい。不幸中の幸いだった。
トランクがどうなったのか、とか、サリーのその後とか、私は何も知らない。
サリーのことをもっと思い出したくて、古いアルバムを開いてみた。埃まみれの台紙に挟まれた四つ切りの写真。
あれ……?サリーは人力車を引いてくれる人かと思ってたけど一緒に乗っている。そして5歳の私1人とサリーという状況。運転手さんは全く覚えていない。
家族はどうしたんだろう。父と母はどこに……?後ろのチェックシャツのおじさんは知らない人だし、そもそもどうして私はあんなにもたくさんサリーと長く過ごせたんだろう。
思い出を振り返ろうとしたけれど、写真を開いたら謎ばかりが残ってしまった。
だけどサリーの笑顔は頭の中と一緒。そうそう!こんな風にずっと笑ってくれていた。
サリーへ。
5歳の私はあなたにお礼を言う方法が分からなかった。「トモダチ!」しか言えなかったはずなのに、かわいがってくれたよね。
たぶん、サリーはあの時20歳くらいだったと思う。だから今は60歳近いのかな。元気かな。あの時、トランクを丸ごと盗まれたドジな家族の、人懐っこすぎる娘はもうあの時のあなたの歳をとっくに追い越したよ。
だけどサリー。あなたのことは30年以上たった今も私の心に強く残ってるよ。今もなお、「忘れられない旅の思い出」と言われると真っ先に浮かぶのはあなたの笑顔です。
あの時はありがとう。
あなたはずっと、私のトモダチです。