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インドでの許しを大切にする子育てについて思うこと

日本では「他人に迷惑かけちゃダメ」と教えられる一方、インドでは「あなたも人に迷惑をかけないと生きれないんだから、他人の迷惑も許しなさい」と教えられる。

一時、SNSでバズったこの言葉。
確かにインドの方の許す力に舌を巻いたことはたくさんありました。
僕自身もその許す力にどれだけ救われてきたかと。

インド礼賛?日本は??

ただ、この言葉。
どこかインドの子育てを礼賛する一方で、日本の不寛容さを指摘するような形での受け取り方もあったように思います。
僕もそういう視点でもこの言葉を眺めていました。

インドにいたときに書いたブログが出てきました。
いやぁ、インドの許し方に驚いていました。
そしてこんなことを書いていました。

日本では誰かが何か間違いを起こしてもめったに感情的に怒らない人が多い。ただ静かに二度目がないだけだろう。
日本では許されないなぁ、大分違うなぁ、と思うこともしばしば。

インドでの「許し」の前提

インドの学校では違いを前提に議論していく。

でも今改めて考えてみて、前提が大分違うんじゃないかと。
インドはダイバーシティが前提で、つまり違いが前提。
もちろん宗教や言語などが多様なのもそうですが、
人間的にもとんでもない幅広さ。
聖も俗も僕なんかの小さな想定を遙かに超える人物と出会わせてくれます。
色んな意味でいろんな人がいます。

だからこそ
そう易々と理解などできない。
だから自分を表現し相手のことも理解するために徹底的に議論しよう、という立て付け。

実際に町中でも、よー議論していますしね。
どんな人がいるかわからないのだから何が人の迷惑になるのか想定し尽くせない。
気付かずに人の迷惑になるなんてこともざらにあります。
そこが前提になっています。

ベクトルとして迷惑かけたら文句も言って良いし議論してもいい。
で、例えば感情を出して議論するのもオッケー。
だけどその後で許し合おう、と。

では日本は?

日本は良くも悪くも好対照。
例えば言語も「国語」があり、つまり共通言語があり、基本誰とでも理解し合えるということが前提にあったのではないでしょうか。
「阿吽の呼吸」とか「推して知るべし」、強いのはやはり「空気読んだら分るでしょ」というもので。

理解できる=迷惑かけないように生きることが可能。
そんな建前を前面に押し出してやってこれた時代があったのでしょう。

ベクトルとしてインドが事が起こった後の調和を図り、
日本ではそもそも事が起こらない調和を図る。
ってのがあるのでしょうね。

ま、今まではですが。
日本でも大分多様性・ダイバーシティが語られるようになってきています。
背景が異なる方々とどう共に暮したり仕事したりするのか。
大切なポイントになるでしょうね。

背景みたいなものを考えてみる

違いを受け入れた上で「許し」も考えないと、それこそ日本の表現のあり方を許せないことになっちゃうのでしょうね。
わー、許しを大切にしているようでむしろ許さない感じになってしまうー!!

ってことを過去の自分にも言ってやりたいす。

この言葉に限らず、何か物でも考え方でも培われる土壌の理解がないと見栄えだけの良し悪しになっちゃうかもしれませんね~。ここは自分も大いに気を付けたいなと思いました。

実際に自分の目で確かめることはとても大切ですが、人は見たいものしかみないとも言います。場合によっては自分の見方をただ強化する現地視察にもなりえちゃうわけで。

単純化して
インドは許す国、すげー!
日本は許さない国、生きづらい!
みたいな方向に容易にしてしまいますから。

自分の目で見つつ、他の人の見方も「そういう考え方もあるのか。」と受け入れられるとより視野は広がるのでしょう。

そんな背景や文化というものへの眼差しがありつつ、例えば今回なら個人として許しをどう実践していくのか考えるのもまた一興。許せたり、ゆるませたりした方が良い部分も大いにあるでしょうし。

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