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僕が死んだ(?)ら、娘が生れ変わった

12月から1月にかけて余命1ヶ月になってみた結果を前回まとめた。知ってる人から「何か変わりましたか?」なんて聞いてもらった

自分にどんな変化があったかはよくわからない。ただ、一つ言えることは6才の娘が変化した。それが結構劇的な変化だった。それがどうやら身内びいきだけじゃなさそうだった。
 

家庭の中での変化

 
でもまぁ、まずは身内びいきと思われてもしょうがないところから。
 

生まれた目的

  
それは僕の余命ワークの最終日。まぁ、勝手な実に勝手極まる命日だけど、まぁそれはそれ。普段は小麦や砂糖は控えているが、せっかくなので昼飯後ロールケーキを皆で食べようと用意した。

こういう写真を撮りたかったのだ。。。

結衣がテーブルに運ぶ途中で手を出そうとした。しょうもないが、写真も撮りたいと思っていたので「ちょっと待ってね。テーブルにおいてから。」と伝えたつもりが、語調が強かったようで泣かせてしまった。

夕方に一緒にお風呂に入っているときに謝った。すると「もう、大丈夫だよ。」と優しく言ってくれた後の言葉。

「うちはね、良いことがあったら胸の中にしまっておくでしょ。嫌なことがあったらね、良い言葉を交ぜて素敵な言葉にして世界に広げるの。それがうちが生まれた目的なの。パパが生まれた目的は何?」

アワアワしたのは言うまでも無い。
  

どうせ死ぬんだから

 
我が奥様、恵ちゃんは愛情深い。できた奥さんだ。基本的に何でも分けてくれるのだが、わけてくれないものがある。それは少ししか残っていない自分のご飯だ。
 

僕らは食の好みや食事の制限が違うので、違ったものを食べることが多い。そして基本的に一口ずつくらいワケワケする。でも、ちょっとしか残ってないときは恵ちゃんは一口を嫌がる。

死後(?)、5日後くらいのとある夕食時、一口もらおうとしたら少ししか 残っていなかったようだ。例によって嫌がられた。それを見た結衣の言葉。
 

「どうせ死ぬんだから、ワケワケしたらいいよ。」

ガツーンと来た。思わず恵ちゃんと顔を見合わせた。

下の句の「ワケワケしたらいい」はまだいい。その上の句はどっからきたのか。「どうせ死ぬんだから」って!しかし、そう、この身体はどうせ死ぬ。自分としてこうしたい!こうありたい!と願うのは勝手だし、まず自分を大切にすることはとっても素敵なことだ。 

同時に、何を願うにしても「どうせ死ぬ」ことを憶えていられるか。メメント・モリだ。ご飯であれ、時間であれ、限られた資源を自分を含む誰に誰とワケワケするのか、したいのか。それを考えるときに、どうせ死ぬがあるかどうか。

うーん。結衣は僕がやったような余命を生きてみるなんてワークは必要ないんかもしれん。
 

みんなこども

 
まぁ、生活してたらちょっとした軽い言い合いみたいなのはある。恵ちゃんとたわいもない小競り合いをした時に結衣に止められた。その時の言葉。 

「もう、見た目とか言葉とかは大人でも、みんな中身は子供なんだよね。」

ぐぅの音も出ないってのはこのことだ。でも、これって本当に大切な真理な気がする。少なくとも僕の6歳の時よりずっと大人だ。いや、今も僕よりも成熟しているところが確かにある。たくさんある。  

スゲーブリッジを見せてくれた

親としては、大人としてかっちょいい背中を見せたい気持ちもある。ただ残念ながら、できそうもない。相当ばれてる。なら、自分の子供の部分も大いに見せて接してよさそうだ。

不思議なもので、そうするとむしろ(僕から見たら)素直に甘えてくれたりする。寝る前にギウして欲しい時に今までは「パパはうちのこと、好きじゃないの?ギウしに来ないから。」なんて言ってた。(これはこれで可愛いが)。

それが「パパ、ギウしよう。」という言葉をそのまま言ってくれたりするようになった。
 

他の大人の方々の言葉

 
正直な話、上記のことは単なる身内びいき、親バカかもしれない。結衣、最近違うなぁとは思っていたけど、限られた人にちょこっと話す程度だった。でも、どうやら単なる親バカでもないかもしれないと思うことがあった。
 

学童の面談にて

 
来年から小学校。うちは共働きなので学童に通ってもらう。その面談があった。行くのは僕と結衣。結衣への面談もあるとのこと。今まで初めて会う大人との会話はモジモジモジモジしていた。なのでどうかなと思ってた。

蓋を開けてみたら驚いた驚いた。何とまぁしっかり受け答えする。問い自体は、保育園の名前、好きな食べ物、好きなお友達、など簡単な質問。姿勢よく座り、担当の方を真っ直ぐ見て、答える。

担当の方も驚いていた。僕が軽口・冗談半分に言った「まぁ、結衣が一番精神年齢高いくらいですから。」という言葉。「あはは。でも、そういうこともあるかもしれませんね。」って。

冗談半分だったんすが(^_^;

ま、でもさもありなんってところでしょう。
 

保育園の先生の言葉

 
極めつけは保育先生の言葉だ。ある夕方に迎えに行った時のこと。お世話になっている先生に、興奮気味に言われた。

「お父さん、最近結衣ちゃん凄いんですよ。○○ちゃんが泣いてて、何故か分からなくて聞いても誰も答えてくれないときに結衣ちゃんが「歯が痛いからだよ。」って教えてくれたんです。優しくですが堂々と教えてくれて。何というか最近、本来の結衣ちゃんが出てきた感じがします。私達にも言うことは言う感じで。それが筋が通っているから、思わず「はい!」って言いたくなるというか。」

あまりにタイムリーでただただビックリ!しかも、別に結衣に何か変わって欲しくて死んでみようと思ったわけじゃない。しかも因果関係があるのかどうかも不確か。でもあまりにタイミングがぴったりだ。

いや、こういう風に僕らの見えないところを見てくれていてただ有り難い。しかもこうやって伝えてくれて。

 

死と育児

 
人は変えられない。変えられるのは自分だけ。」
「育児は育自」

こういう言葉を再度突きつけられた。やっぱり生きていたら、相手に変わって欲しいと思うことがある。特に接する距離が近いと尚更。だって、距離が近ければその人の影響が大きいわけだから。自分の都合良く変わって欲しい。特に親にとっての子供。変化を強いるのはやろうと思えばしやすい。親のが強くて「正しい」から。 

でも、自分は相手の都合良く変えられたいかって言うと、まぁ嫌だ。変わるのはいいけど、変えられたくはない。にも関わらず、時に僕らは相手を変えようとするコミュニケーションを取ってしまう。明らかに矛盾しているのだけど。

育児を語れるようなことは何も持っていない。ただ、今回の経験からちょっとだけ見えてきたことがあるとして。一つの仮説だけど。

僕らは、子供をありのままに受け入れたい。もちろん子供だってありのままを受け入れてもらいたい。でもそのためにはまず親が親自身をそのまま(ほんとにどれだけダメダメでも)受け入れることが必要なんじゃないか。自分を受け入れてないで、他者を受け入れるのは難しいから。自分を受け入れるときに、「どうせ死ぬ」っていうことは大きな動機付になるんじゃないかなって思う。

そう、どうせ死ぬ。
なら自分くらい、本当に驚くくらい明らかにとんでもなくダメダメだったとしても受け入れる、許す。この受け入れるためには、ダメダメも含め自分を観ることが必要。その観るって、とってもエネルギーいるから後回しにしたい。この「どうせ死ぬ」っていうことを忘れると僕らは後回しで人生が終ってしまう。

「どうせ死ぬ」と同時に「いつ死ぬかわからない」ってことも同時に抱えていることが大事なんだろな。そんなことを死と少し向き合ってみて、そして娘がいてくれることで教えてもらえた。有り難い。

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