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『100万回生きたねこ』 ~死生観メディア探求~

死生観メディア探求

 
死生観を考える上で、最近ほぼ死語になっている「死にがい」が興味深い。s広辞苑によれば、生きがいとは「生きるはりあい。生きていてよかったと思えるようなこと」と定義されている。もはや死語となりつつある「死にがい」という言葉も一方である。

生きがいをもじって、そのまま訳すと死にがいは「死んでいくはりあい。死んで良かったと思えるようなこと」となる。何だか凄い文章だ。ただ、改めて生物の致死率が100%であることを考えると、生きがいだけを求めるのは得策ではないかもしれないと思うようになった。

何故か。どんなに生きがいが大きくてもそれは死で終ってしまうから。生きがいがあればあるほど死を恐れることになり得る。対して死にがいを持つとは、自分のいのち以上に価値があるものを認めることである。また、自分のいのちのその先を見据えている。ただ死を恐れていては見いだせないもの。死と向き合い死にがいを探求することで、自分の存在の本当の価値と繋がれるかも知れない。

死生観メディア探求というシリーズがどれだけ続くかわからないが、書籍や映画などの各種メディアから死にがいについて語ってみたいと思っている。テーマとして、時に健全に死にがいを語りたいというところ。

その第1回として、自分も子供の頃から愛読し今も娘に読み聞かせている「100万回生きたねこ」を取り上げてみる。
 

『100万回生きたねこ』概要


100万回生きたねこ』(ひゃくまんかいいきたねこ)は、1977に出版された佐野洋子作の絵本。輪廻転生を繰り返している一匹の猫が、やがて運命の相手と出会ったことで愛や悲しみを知っていく様を描いた、哲学的な要素を含んだ作品。子供より大人からの支持を得ているとの評価も見られ、「絵本の名作」と呼ばれることも少なくない。

ウィキペディア

おお!いきなり輪廻転生という言葉が出てきる!!でも、まさにそう。色んな人の飼い猫で人のための人生を繰り返す。その数、実に100万回!その果てに遂に野良猫として自分のために人生が始まり、その過程で自分以上に大切な存在を知る。その人生を最後に輪廻の輪から離脱するという壮大な物語。
 

久々に読んで泣いた

 
子供の頃、父にせがんで何度も読んでもらった。もちろんその頃は輪廻なんて言葉は知らなかったのだが、それでも不思議な物語展開に魅了されていた。

先日、娘に読み聞かせた時思いがけず涙が溢れてきた。そこを探求しようとnoteに書こうと思い立った。ちなみに僕が泣いているのを娘は冷ややかに観ていた。娘はあまり好きな物語ではないそうだ。別の意味で泣きそう(T_T)
 

3つの謎


この物語を最後まで読んで不思議なことがいくつかある。通常の物語とまず違うところが3つある。

  1. 永遠のいのちスタート

  2. 最後は生れ変わらない

  3. 死がハッピーエンド。

1,永遠のいのちスタート


まず永遠のいのちスタートなのだ。その数なんと100万回!通常、他の物語は永遠のいのちを求めて闘ったりする。ドラゴンボールも悪役は大体永遠のいのちを望んでた。ドラゴンクエストでも魔王が永遠のいのちを狙っていた。でも、このねこは最初から100万回生まれ変わっている。
 

2,最後は生れ変わらない

 
最後は死んで終わる。「末永く幸せに暮しましたとさ」終わりじゃない。100万回も生れ変わったねこだけど、最後は生れ変わらない。死ぬことがラスト。これが最大の謎かも知れない。
 

3,死がハッピーエンド

 
死ぬことで終るだけじゃない。なんと、生き返らないことがハッピーエンド。死ぬことがハッピーエンドで描かれている。最後はただただ野原のイラストなのだけど、何とも爽やかなエンディングになってる。
 

ねこは痛みがなかった

 
前半部分は色んな人に飼われる。その数実に100万人。例えば、王様、船乗り、サーカス、どろぼう、おばあさん、女の子など。

ねこを飼った人達はみんなねこが好きだった。そして死んだときには悲しんで泣いた。でも、ねこは飼い主みんな嫌いだった。死ぬのは自分なので別に悲しんでもなかった。

この100万回飼われるねこはいつも「誰かのねこ」の生だった。だから、自分は痛みがなかった。果たして痛みがない生などあるのだろうか?それは本当の生だろか?という問いが生まれる。
 

ねこと生き方

 
ねこが死に対してどのように思ってきたのかの変遷をまとめてみる。
 

死ぬのなんともない

 
何度も何度も生れ変わる中でねこはこんな風に思っている

ねこは しぬのなんて へいきだったのです。

そう、まずねこは死ぬのなんてなんともなかった。痛みもないのだから。これはゲームに似ている。スーパーマリオでは穴に落っこちたりでかい花に食われて死んでしまったりする。でも、別にコントローラー握ってるこちらは別に痛くはない。またやり直せばいいだけ。ねこの生もまさにそんなだ。
 

自分大好きに

 
そして、最後は自分のねこになった。しかも、それまでの輪廻の記憶をもっているのでまずは調子に乗る。生れ変わる前の能力まで引き継いでいるのだから無敵だ。色んな話もできるし、サーカスで覚えた宙返りとかも披露できる。それでメスねこにモテモテになる。でも、

ねこは だれよりも 自分が すきだったのです。

自分が一番大好き。それまで飼い主が嫌いなままの生を100万回送ってきたときとは雲泥の差。そのまま自分大好きねこで終るのかというと実はそうではない。

自分以上に好きなもの

 
調子に乗っていたねこは、自分に見向きもしない白いうつくしいねこに出会う。そして何とか口説き落とす。そして、めでたく2匹の間にたくさんの子ねこが生まれる。そしてその時のねこの感覚は

ねこは、 白い ねこと たくさんの 子ねこを、自分よりも すきなくらいでした。

なんとここへきて、自分以上の存在ができちゃう。自分以上に大事な存在だから、白いねこが死んだ後は100万回も泣くことになる。思いっきり愛した。だから思いっきり悲しんだ。100万回も泣いて、そのまま死んでしまった。

平気ではない死。

ねこは もう、けっして 生き返りませんでした。

で終わる。
 

なぜ、最後ねこは生れ変わらなかったのか。

 
やはり改めてこの問いがでてくる。73歳の父と6歳の娘に聞いてみた。
 

父と娘の答え

 
父は考え込んでから
「うーん、自分で『生きた!』っていう自覚があったからじゃないかな?」

娘はあっけらかんと
「もう生き返る元気がなかったんじゃない。」

と。考える時間も答えるときの質感も全然違うけど、何だか同じようなことを言ってたのが面白い。やりきった感じ、エネルギーを使い果たした感じだ。
 

逆説で考えてみる

 
100万回生きたねこは最後なぜ生れ変わらなかったのか?

この問いはもしかしたら、逆なのかも知れない。なぜ、ねこは100万回も生き返ったのか。つまり、なぜ死にきらなかったのか。そう考えるとシンプルに、それまでは生き切らなかったからではないのか、と出てくる。

最後は、思いっきり元気も使い果たすほど生きた。それまで未完了だった生が完了した。だから生れ変わらなかった。そんな答えは一つある。
  

更に逆説

 
もう一つ逆説で考えてみた。一番後ろから読んでみる。すると、まず死がある。

ねこは もう、 けっして 生きかえりませんでした。

死んだのだ。なぜ死んだのか。死ぬのは生きたから。以外の答えはない。

『死は生のアリバイ』

藤原新也の著書『メメント・モリ』にある言葉。そこに死があるからこそ、生があった証明ができる。

生を考えると、ただ一人生き延びるということの意味での生ではない。生きていれば他者と出会う。他者との最高に生産的な関係である、愛がやっぱりテーマとしてでてくる。
 

愛のステップアップ

 
最後から、そして愛という観点で読んでみると面白いことが。

  1. 最後生れ変わらない。死にきる。その前は?

  2. 白いねこの死を悲しみ、100万回泣く。なぜか?

  3. 白いねこを自分以上に愛してたから。その前は?

  4. 自分自身を誰よりも愛してた。その前は?

  5. 自分を大事にする人に飼われていた。

  6. 自分を大事にしない人に飼われていた。

と、後ろから読むとこんな感じになっている。そこを踏まえてもう一度前から読んでみる。愛の形で、三つの大きな違いがある。依存型、自己愛型、自己超越愛型。
 

依存

 
6、自分を大事にしない人に飼われていた。
最初の四人は危険な場所に連れて行くダメダメな飼い主達だ。ねこのことは好きだが、戦争やら海の上に連れて行き、サーカスの切断ショーやらせたりや犬の前に置いておくなど。案の定、それぞれその事故でねこは死ぬ。

5,自分を大事にする人に飼われていた。
やっぱり自分を大切にしてくれる人の方がいいわけだ。おばあさんや女の子はねこが好きだし大事にもする。それでも老衰や可愛がった先の事故などでねこは死ぬ。

ただ、自分を大切にしてくれようがしまいが、どちらも依存型なのは変わらない。恐らくご飯を食べさせてもらいながら、ねこは飼い主が嫌いなまま。
 

自己愛

 
4,自分自身を誰よりも愛してた。
自分のことを大切にしてくれる人であろうとも、ともあれ依存する生活を散々し尽くす。それこそ100万回も。そして遂に自立する。自己愛に目覚める。

自己愛に目覚めると自分の良いところが見えてくる。自己肯定感が爆上がりする。「おれってすげー状態」になる。モテモテだが、どんなお土産を持ったメスねこがこようと見向きもしない。自分の凄さに惹かれるのは依存先を探していることだとわかるのだろう。
 

自己超越愛

 
3,白いねこを自分以上に愛してた。
自分に見向きもしないねこに惹かれる。その白いねこも自立している。だから別に誰かを必要とはしない。

友人がこんなことを言ってた。「自分に自信がなかった頃はブランドものをこれでもかってつけてた。そうしないと価値がないと思って」と。ねこに貢ぎ物をするメスねこにもそういうところがあったのだろう。ブランドものなのか凄い彼ねこなのかの違い。

でも白いねこは違う。別にねこを必要としないのだ。

「未熟な愛は言う、『愛してるよ、君が必要だから』と。 成熟した愛は言う、『君が必要だよ、愛してるから』」エーリッヒ・フロムの「愛するということ」から。誰かをまず必要とするのは依存しているから。成熟した愛に入るためには自立・自己愛が必要だという。

自立し自己愛も持っている白いねことその間に生まれた子ねこたちを自分以上に愛する。自分を愛したまま、白いねこを自分以上に愛する。
 

2,白いねこの死を悲しみ、100万回泣く。
互いを自分以上に愛する関係で結ばれたねこと白いねこ。ねこにとって、そんな自分以上の存在となっていた白いねこの死。それは、世界がひっくり返るほど悲しみをもたらすものだった。

慟哭という言葉がある。悲しみの余り大声をあげて泣くという意味。ねこの泣き方はまさにそんなだ。悲痛な叫びを上げている。

1,最後生れ変わらない。死にきる。
深い悲しみの余り寝食も忘れて泣き続ける、泣き尽くす。
いのちが尽きるまで。

深い深い悲しみはそこに深い深い愛があったから。
 

「100万回生きたねこ」が教えてくれたこと


最後に3つほどこの絵本の教訓をまとめてみる。ほんと、一冊の決して長くない絵本にこれだけの教えが含まれていることに驚愕する。
 

死がハッピーエンドな理由


逆から眺めてみて、ねこの死が何を表すのか。ねこの死は、他者を自分自身以上に思いっきり愛したことを表わしている。自分以上に大切な存在を見つけ、いのちをかけて愛し切った、生き切った生がそこに現れる。

100万回も生き返り続けたねこの死は、真の愛に生きた生のアリバイとなった。

壮大なハッピーエンドのために、永遠のいのちからスタートすることが必要だった。嫌いな人に繰り返し出会うこともまた、最高の前振りだったのだ。
 

人生のすべてに意味がある

 
僕らの人生でも色んな時期がある。小さい頃は親に全面的に依存している。面倒全て見てもらい親に愛されるから自分は愛されるに足ることを知る。しっかり依存することで、色んな意味での自立や自己愛を育んでいく。

自己愛を育むことで、他者を愛することを覚えていく。少なくとも覚えようとする。もちろん生まれ持った性質や育った家庭、出会いなどで違いがあり、年齢的に成熟しても深い依存状態のままなこともある。

大切なのは今、自分がどこの段階にいるとしてもそれが分かれば次のステージが出てくる。一段ずつしか上がれないけど確実に上がっていける。一足飛びはできない。このねこの人生(猫生?)はそんなことも示唆してくれている。

どんなステージにいようがそのステージにいる意味がある。例えどんなネガティブに見える状態だとしてもそれは壮大な前振りなのだ。
 

本当に恐いこと


永遠のいのちはゴールではない。僕たちが生れ変わっているのなら、輪廻を転生し続けているなら、死なないことが実はスタート地点。そう考えると恐いのは、死ぬことではない。

本当に恐いのは、生ききらないことをただ続けること。生きるってただ息吸って吐いてではない。「パンのみにて生きるにあらず」僕らは深い願いも持つ。自分の光も影も含めて丸ごと受け止め愛したい。そんな自己愛に立つこと。

そして願わくば自分を愛する延長に、自分のいのち以上に大切な何かや誰かに出会い、その何かや誰かにいのちを精一杯使うこと。いのちを生きるっていうのはきっとそんなことなのかもしれない。

ただ生きながらえる生こそ恐い。しっかり死ねる生こそ僕らの本当の願いかもしれない。
 

最後に

 
このねこは100万年の間に100万回生き返っている。平均1年だ。
引き換え、僕らは今、人生100年時代を生きている。死んで生れ変わらなくても、生きている間に何度も生まれ変れる時間はどうやらありそうだ。

どうせなら生きているうちに生れ変わりたいものだ。
 

再度まとめ

 
書いてアップした翌日(1/31)、こういうテーマもシンプルだなとひらめいたこと。そして大事な問いを投げかけてくれるな、とも。
 

飼いねこの時

 
飼いねこのときは、どの飼い主も嫌いだった。嫌いな人に飼われている自分のことも嫌いだったろう。相手も自分も嫌い。つまり世界が嫌いだった。

問い
「他人のために生きて自分を消耗させてないか。他人軸で生きてはないか。」
 

野良ねこの時

 
野良ねこ時代は自分だけが大好きだった。他の人はどうでもいいか、もしくは自分を讃えることに役立つかどうか。世界の中で自分だけは好き。

問い
「自分のために人や環境を利用していないか。承認欲求に駆り立てられてないか。」
 

白いねことで出会ってから

 
自分を愛しながら白いねこを自分以上に愛することを通じて、その愛が広がる。その象徴は子ねこたち。ねこは、白いねことの関係から世界全体を愛した。世界とつながった。ワンネスの世界。

問い
「自分の愛はどれくらいの広がりを持っているのか。」

 
こうしてみると子供の存在って面白い。自分を愛し相手を愛する2者間が愛が三者以上、つまり世界を愛する架け橋になっているってこと。生まれてきてくれただけでどれだけギフトをもたらしてくれるのか。

ところで、ヨガ哲学では輪廻の輪から抜け出るには悟り、解脱することとされる。ねこの生き方はその道を何とも素敵な物語で教えてくれている。しかも、何よりその過程で色んな問いを自然と投げかけてくれるのが素晴らしすぎる。

大人の絵本と言われるわけだ。

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