津波に街が飲み込まれる姿はまるで化け物のようだった。3.11
過去の私の日記からの記事です。
東日本大震災から丸5年がたったということもあり、
あの時のことを思い出す意味でも、紹介させていただきます。
今日も山形県庄内の山々は綺麗で、
この景色だけを観るととても日本中で大きな事態が起こってることなんて感じられない。被災地以外では徐々に事態は収縮していくのかもしれないが、今回の地震で自分が感じたこと、考えたことを忘れず、いつでも見返せるようにここに記したい。
地震直後、私は会社にいた。最初すごいゆれるなと思っていたが、
なかなかゆれがおさまらずむしろ大きくなっていった。これは尋常ではないとすぐにわかった。
ラジオからもそのことを伝える音声が流れていた。
会社は幸い停電しなかったので、ラジオも聴けたし、テレビの映像も見ることができた。
津波の映像は町が化け物にも飲み込まれているようで、
とても現実のこととは思えなかった。とにかく酒田の妻と息子が気になったが、電話は全然つながらなかった。
帰る途中の道は信号もきかなくなっていて、みんな自分らでゆずりあいをして車を走らせていた。警察官の方が誘導してくれたりもしていた。
家に帰るとみんな無事だったが、家は真っ暗だった。実家には反射式ストーブがあったので、みんなそこに集まっていた。それから約二日は停電した。
まず、地震直後に感じた事。
これだけの非常事態になると電話もネットも全然つながらないこと。いざとなるとデジタルツールはほとんど役に立たないと感じた。
幸い会社のある鶴岡市は停電しなかったためにテレビやラジオで情報を入手できたが、停電した都市では携帯用ラジオなどを持ってない限り情報は遮断されていただろう。改めてラジオの大切さを知った。
ケータイのワンセグは見れたらしいが、すぐにケータイの電池がなくなってしまい、電池式の充電器を持ってない限り厳しいと感じた。みのもんたがラジオでこすって充電できるケータイを作ってくれとソフトバンクの孫さんにお願いしてたけど、そんなようなものの必要性も今後高まるのではないかと思った。
そして、東北では反射式ストーブこれは本当に必需品だと改めておもった。
電気ストーブは電気がないと何の役にも立たない。
そして地震の翌日に酒田のイオンがつく電気もまばらながら、食料品コーナーだけ開店してくれていた。
非常用の食料や資材など買い込むため店内は人でごったがいしていたが、みんな順序良く並んで周りを気遣っていた。その姿がいまでも心の残っている。
そこに東北人の礼儀正しさ・優しさを見たような気がする。