ケアの手触りが抜け落ちた社会の中で、できることについて
戦後、日本では人間が「生まれる場所」と「死にゆく場所」が自宅から病院へと大きく転換しました。
「生まれる場所」は、統計によると1960年に病院と自宅・助産院とでちょうど半々くらいの割合でしたが、1970年には80%以上の人が病院で生まれています。
「死にゆく場所」は、統計によると1975年に病院と自宅とでちょうど半々くらいの割合でしたが、1990年を過ぎるころには病院で亡くなる方が80%近くになりました。
人間が、自然に死んでゆくとき、その数日前あたりから食事や水分を必要としなくなり、身体の中のあらゆる水分を自力で排泄し、とうとう命を生き切る前日あたりには、呼吸が特徴的なものとなり、静かに息をしなくなります。それは、とても尊い瞬間で永遠さを感じさせる刹那といえる時間のように感じます。
人間が、自然に生まれてくるとき――これを語るには膨大な言葉が必要になるのですが、あえてひとつ書くならば――、生まれてくる命を象徴するかのような自然界にあるもの(例えば、植物や天気など)を、母親はするどく感受します。私はこのことを、多くの母親たちから聞いたし、私自身もそうだったのですが、このような感覚を得た人はきっと多いのではないかと思います。
統計でみると明らかなように、現代の私たちの多くには、日常生活の中から、生まれることと死にゆくことの、そのプロセスと瞬間が欠落しているわけです。
マザリング(mothering)は、the act of caring for and protecting children or other people(オックスフォード現代英英辞典)、つまり、子どもなどのケアが必要な人びとを、ケアし守る行為。
あらゆるものを合理化し、非自然化してゆくような時代を超えて、次の世代に、何を伝えていったらよいのかを考えると、私はやはり、「生命の自然さ」を伝えたくなってしまうのです。
それがどのようなものなのかは、また別の機会に書こうと思います。