木の枝、石ころ、道の終わり
その日は霧みたいな粒子の細かい雨が朝からずっと降っていた。窓を開けて目を凝らしてみてようやく降っていることがわかるような、そのくらい細かくて静かな雨が絶えずずっと。
特に予定のない暇な週末だった。寒いし雨も降っているから、私は出かけたくなくて、ずっと布団の中で本を読んでいた。途中で眠たくなったら目をつむって寝て、目がさめたらまた続きを読んだ。
最後に目をさましたとき、日は暮れていて夜になっていた。布団から出て、窓を開けて顔を出してみると、空気は冷たく澄んでいた。やっと雨は止んだようだった。遠くの、よそのお家の灯りを見つめる。いつもと同じかたち、同じ色の窓明かりたちが、暗闇にぽつぽつ浮かんでいる。
なんだか熱い紅茶が飲みたかった。それでお湯を沸かすと、肝心のティーバッグを切らしていることに気付いた。私はがっかりして、仕方がない、紅茶は我慢しようと思って、でも、時計を見たらまだ7時だったので、やっぱり買いに出ることにした。雨も止んだみたいだし、一日中どこにも出かけていなかったから、ちょっと外の空気にも触れたくて、散歩がてら。
家を出るときに、ふっと自動販売機のことを思い出した。
さっき窓の外を見た時に、その自動販売機の灯りが見えたのだった。行こうと思っていたコンビニとは逆方向だけれど、家からはどちらも変わらないくらいの距離だ。
お店で茶葉を買ってきて自分で淹れたほうが美味しいのかもしれないけれど、たまには自動販売機で缶のものを買ってみてもいいかもしれないと思った。さっき窓から見た自動販売機の灯りが、なんだか綺麗だったのだ。ひと気のない道にポツンとあって、寂しげで。
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その自動販売機に辿り着いたら、当たり前だけど、ごく普通のどこにでもある自動販売機だった。それでも私は満足した。さっき窓から見た綺麗な灯りの場所にきたんだと思って、楽しい気持ちになった。
ホットのミルク紅茶を買って、両手で包みこむようにして持ち、カイロ代わりに手を温める。
せっかく外に出てきたのですぐに帰るのが勿体無くて、自動販売機の隣に立ち、灯りに照らされた目の前の景色を眺めた。
雨が降ったあとの、濡れて黒く光るアスファルト。その上に散らばる、葉っぱや木の枝、石ころ。
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遠くの暗がりから、こちらへ歩いてくる人の気配がして、私は身構えた。(私はいつも夜に外で一人でいるときは、変な人が近づいてきたら逃げないとと思って警戒するようにしている)
おそらく大学生だろう男の子と、後ろからもう一人、彼と同い年くらいの女の子が歩いてきた。
ふたりとも手にしたスマートホンの画面を覗きこんでは顔を上げて、きょろきょろと周りを見渡すという動作を繰り返している。なんだか道に迷っている様子だった。ふたりは私がいる自動販売機の前まで来ると、そこでぴたりと立ち止まった。
「やっぱりここだ」
「でもそれらしき店はないよね」
すると女の子の方が私を見て、おそるおそる遠慮がちに話しかけてきた。
「あの、ここらへんに住んでいる人ですか?」
「ええ、まぁ」
「このへんに変わった喫茶店があるって聞いてきたんですけれど、知ってます?」
「いや、喫茶店はちょっとないと思いますよ。見ての通り、このあたりは家か畑しかないので」
私は長らくこの町に住んでいるけれど、この町に喫茶店だなんて、見たことも聞いたこともなかった。
「でも、地図を見ると確かにここなんですよね。すみません、ちょっと見てもらってもいいですか?」
そう言って女の子が差し出してきたスマートホンを見せてもらうと、グーグルマップが表示されていて、目的地は確かに、今私たちがいる場所のようだった。
「本当だ。ここですね」
男の子のほうはさっきからずっと、グーグルマップが示している自動販売機の方を神妙な面持ちで見つめている。
私は申し訳ないけれど、このふたりのお役には立てそうにないなと思って、この場から、そおっと立ち去ることにした。
「もしかしたら地元の人も知らないのかもしれないよ」
すると男の子が女の子に向かってそう囁くのが聞こえた。私はすでに背中を向けて歩きだしていたけれど、気になったので、こっそり聞き耳を立ててみた。
「新月の夜にだけオープンしている喫茶店だなんて、人に隠れて、個人的にやっているのかもしれない」
新月の夜?
今日は新月だっただろうか。そういえば月は見ていないけれど、雨が降っていたせいで雲があって隠れているだけなのかもしれないし、よくわからなかった。
家に向かいながら、私はずっと胸がどきどきしていた。それは不安などきどきではなくて、どちらかというと楽しいどきどきだった。
しばらくして今度は、後ろから誰かが走ってくる音がした。
「すみません、ちょっと待ってください!」
びっくりして振り返ると、さっき出くわしたカップルだった。そしてふたりは息も絶え絶えに言う。
「ラプサン・スーチョン!」
「えっ、なんです?」
「ラプサンスーチョンっていう珍しい紅茶があって、それが飲めるらしいんですけれど、もしかしてそれが合言葉だったのかなと思って」
「あの場所はやっぱり合ってて、だから、あなたはお店の人なんじゃないかなと思って、僕たち追いかけてきたんです。違いますか?」
どうやら誤解されているようだった。私は困惑しつつも、ここまで全力で走ってきた二人にちゃんと説明しなければと思って、どぎまぎしながら答えた。
「違いますよ。私はただあの自動販売機に用があって、行っただけの者です。なので、お店のことはなにも知りません。期待外れで、申し訳ありませんが。」
ふたりは私の顔をじっと見つめると、やっと諦めてくれたのだろうか、そうですか、と残念そうに言った。
「僕たちの思い違いでしたね。驚かせてしまってすみませんでした」
そう言って、男の子はぺこりと頭を下げた。私はすごく気になってしまって、今度はこちらから質問してみた。
「そのお店って有名なんですか?雑誌に載っているとか?」
「いいえ、そういうんじゃないんです。でも、前にインターネットの友だちから聞いたことがあって、探しに来たんです」
「お店の名前は、何ていうんでしたっけ?」
「お店の名前はわからないです。というか、名前は、きっと無いのだと思います。でも、あの場所と、ラプサンスーチョンが飲めることは確かなんです」
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謎のカップルと別れて、無事に部屋まで辿り着くと、私はゆっくりと息を吐いた。家に着いてほっとした。どこか遠くまで旅に出ていて、今やっと帰ってきたみたいな感じがする。買ってきた紅茶もすっかり冷めてしまっていた。そっとテーブルの上に缶を置く。
そうだ、忘れないうちにと思って、スマートホンで新月について検索すると、今月の新月はやはり今夜のようだった。
次にラプサンスーチョンについて調べてみると、確かにそういう種類の紅茶はあった。松の薪で燻製した、スモーキーな香りが特徴の紅茶で、ミルクをたっぷり入れて飲むのがおすすめらしい。私はなんだかすごく飲んでみたくなってしまったので、明日、紅茶専門店に行って探してみようと思った。