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「学校行きたくない」という娘は、風呂で回転する人だった

『「学校行きたくない」と言う』

『はい』クリック。

結果は……。

『学校休ませたほうがいいでしょう。』

がびーん。

 その時の私は、小1の娘と夫と楽しく朗らかに朝ごはんを食べ、さぁ出発という時になって娘が「学校行きたくない」なんていうものだから、すったもんだの末「2時間目からいこうね」と約束して、1時間目の時間はチャレンジをやらせ、2時間目に滑り込み。「明日は1時間目から行くんだよ」と念を押して、先生にペコペコして教室におくりとどけ、帰ってきたところだった。

 携帯を開けば、なんとなく行き渋りや不登校の記事をさぐってしまい、なになに?精神科の先生が作った学校休ませたほうが良いのか診断なるものがあるのか。いやいや、そうは言ってもそんなに深刻に捉えてないが……と、気軽な気持ちで『はい』『いいえ』と、項目をクリックして診断したら、上記の文言。

がびーん。

 しかも、他のnoteにも、行き渋りの子にやってはいけない事に、「行くべき理由を語る」「行きたくないという気持ちを否定する」「行きたくない理由を聞く」と書いてある。ああ、全部朝やった。やってもうたのか。しかも「明日は行くからね」とか、念まで押してもうた……。

 実は行き渋ってる娘を見て、(今日は休むか)という気持ちに傾きかけたときの夫の焦りが、見て取れた。
(ええ!?休んでいいの!?いやいやいやいや)
という顔をしていた。実際に、いやいやいやと、言ってたかもしれない。

 私は動揺した。やっぱり行かせるべきか。学校に電話して、2時間目から行きますというと、あっさり承諾。娘も渋々承諾。「今日休みたかったのに」とぽつりと言われながら、一緒に学校に行ってきたのだ。

 『休みたいという子には休息が必要です』と、ばばんと言われると、それはそれで動揺する。
「行きたくない」と出る直前に言われて、「そっかー!なら休もー!」と言える親、何人いるだろうか。いや、顔色悪いとか食欲がないとか、無気力とか、ホントは行きたいけど行けないとか、そういう子だったら、休もー!1日くらいいいよー!となるかもしれない。
 でも、出る直前なかなか準備が進まず遅刻ギリギリになって、「行きたくない。今日は好きな教科ない。国語好きじゃない
(悲しいことに、娘の時間割国語だらけ……週4で1時間目国語。今日は1時間目と5時間目国語……素人目からしてもありすぎじゃぁねえのかい?と思うくらい国語がある。そして宿題も国語……基礎は大事だよ、大事だけども……)」
などと言われたら、いやいやいや!これで休息が必要って出るのですか?と思ってしまうのである……。

 でも……もしもだ。もしも無理に行かせたらこのあと、娘が疲れ切ってある日から不登校ループにはまり、よく笑う娘の表情がなくなり、「死にたい」と口にするようになるのか。そして、母は仕事復帰できぬまま不登校ビジネスにすがってしまい、夫婦仲が悪くなり、学校行けるようになるまで何年もかかるのか……。そう考えるだけで恐ろしい。

 でも、でもだよ……ちょくちょく休んだら「休んでばっかりでずるい」とかいって、お友達関係が悪くなり、余計に行きづらくなり、長期化して、不登校ループにはまり、よく笑う娘の表情が………以下同。

 どっちも地獄のような日々……。
なぜだ。誰も悪くないのに、こんなにも辛い場所なのか!?

 いやいやいや、なんで学校のクラスの小さな場所に行くのに、そんな辛い思いしなくてはいけないんだ。
 周りで沢山の優しい子達が学校いけなくなり、親子で戦って挙句に発達検査とか受けることになっていると聞くと、、
学校がダメということはないのか。そんなに偉いのか学校は。と、つい思ってしまう。
 先生を責めるというよりも、、、うーん、そうではなくて、そんなに『他』の選択肢が簡単に選べないのか……と思ってしまう。
 もちろんフリースクールなるものがあることも、近くにはないことも、オルタナティブスクールみたいな特殊な学校があることも、近くにはないことも知っている。
保健室登校も、スクールカウンセラーさんが来る日もプリントで見てる。
でも、なんていうか、ピンとこない。
学校が、『学校』として君臨してて、狭い。そして変えられない閉塞感がある。私の小さい頃から、変わらない。

 なんていうか、「あ、クラスに入るのつらい?先生と合わないのかなー?じゃあクラス変えてみる?」くらいの気軽さが欲しい。「あ、じゃあ机の位置変えてみる?」とか「あ、じゃあ国語は〇〇先生にしてみる?」とか、それくらいの。
 これ、大学くらいまで行くと、当たり前なんだけどなぁ。
 不登校が小中だけで14万人で過去最多、11年連続更新。きっとその裏で不登校とまでは行かなけど、行きたくないみたいな子達が何十万人といるのに、その子達だけ行くもいかぬも歯食いしばって不安と戦わなきゃいけないんだろう。

対応できる幅が増えたほうが、先生の負担だって軽くなるのになぁと。

まぁ、それは、愚痴として。

 我が家の1年生は、「なんで1時間目と5時間目国語で合わせて8回も音読しなきゃいけないのか分からない」と、理由をはっきり申すような人である。ホントに1日8回も音読するのかは謎なのだが、とりあえず、帰ってきても食欲はあるし、ブーブー文句言いながらも宿題もやるし、よく笑う。
良かった。


 私は、これを胸に刻もうと思ったことを思い出した。

 夜いつも寝る前に読み聞かせをしているのだが(決して英才教育ではなくせがまれるのだ)、こないだまで石井桃子さんの『ノンちゃん雲にのる』を読んでいた。

私が父に読み聞かせしてもらった本。懐かしい。いや、今読んだら冒頭しか覚えてなかった。ごめん父。読んでもらった。という思い出が大事なのだろうな、うんうん。
 どうしても古い文体なので理解できるかなと思っていたら、ゲラゲラ笑いながら聴いている。
その中で、ふと、私の心に刺さったおはなしがあった。

 のんちゃんは成績優秀、お兄ちゃんは怒られてばっかりで、のんちゃんは、どんなにお兄ちゃんがいじわるかを、雲のおじいさんに話す。でも、おじいさんは「面白いっ!なんていい坊主なんじゃ」と大笑い。
 次にのんちゃんのことを聞かれてのんちゃんがどんなに自分が良い子なのか説明すると、おじいさんは気難しげに言うのだ。
「良い子っていうのは、よほど気をつけねばならん」
 成績優秀、粗相もしない、そんなのんちゃんに、「傲慢になってしまわぬよう気をつけろ」という。「こんな妹を持った兄ちゃんの気持ちも考えてやれ」という。

読んでいて、涙が出そうになった。

 母としての私はどうなんだ。
『良い子』を育てようとしていないか。
自ら学校に行き、宿題をし、成績が良くて、友達がたくさんいて、優しくて、何事も楽しむ、そんな教科書に載ってる子どもの見本のような『良い子』を育てようとしてなかったか。

 いやいや目の前にいる娘は、そんな生易しい“良い子”ではない。『のんちゃん』というより『兄ちゃん』、『たまちゃん』というより『まる子』、『できすぎくん』というより『のび太』。

思い当たると……いやはやなんと
『面白い子』
を育てているのか。

 先日も、一人で風呂に入れるようになって1年生はすごいなと感慨にふけっていたら「ママー!!」と声がして行くと、「潜るのは良い?」という娘。
「潜るのはいいけど、回転しないでね」という、風呂場の会話とは思えない会話をする2人。2人で入るときに最近獲得した湯船でタイヤのように回転する技。1人では溺れるかもしれないから、やめてという会話だ。
 そうだ、この人、お風呂で回転するような人だった。ゆっくり肩まで入って、百数えるような人ではないのだ。

 物怖じせず、納得いかないことには我慢せず、でも、私なんかよりずっとユーモアで切り返すセンスがある。作るものも、やることもオリジナルが好きで、型にはまりたくない。

 そして、毎日どれだけ言っても、この寒空の中、半袖短パンを貫こうとする。

面白い子だ。

と、いうわけで、我が家は、行く行かないの前に、一つ作戦を考えた。娘と一緒に考えた。

 次の日はみんなで朝早く起きて、娘は一番乗りを目指して学校に行った。
夜もスムーズで時間があまり、娘が考えたトランプゲームをした(トランプで話を作り、合計の数が大きいほうが勝ちというゲーム。なかなか面白かった)

 帰ってきてから娘に聞いたら、一番乗りで行くのは良かったそうだ。明日もそれで行くと言っている。
でも、この先はどうなるか分からない。
その時その時の娘と、話し合えば良い。

 ネットや本や色々見すぎると、どうしても子どもが正しい方に向いているかが気になってしまう。不登校かどうか。障害じゃないかどうか。何かの基準に当てはめて、安心したくなってる。
 誰一人違うのは当たり前なのに。今の基準に当てはめて、無意識に正しい『良い子』を求めている。危ないぞ、と、おじいさんはいうだろう。誰もが、『良い子』に見下されることなく、魅力的で面白い子なのだから。

 色々動揺して良い子を求めそうになった時、たびたび雲の上のおじいさんを思い出しながら娘を見て「わっはっはっは!」と乗り切れたら良いなぁ。


私はこんなにも

「面白い子」を

育ててる!!!

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