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私は今日、久しぶりに泣いたのだった。
先日、岸部シローさんが亡くなった。
『パーキンソン病等の病気で闘病中』と書いてあったが、『拡張型心筋症』で亡くなったらしい。
どのような経過なのかはわからないが、そのニュースは、私にとって悲しいものだった。
同じ病名だったし、パーキンソン病は、私の大好きだった祖母の病気だったから。
私は8月の中旬に、『特発性拡張型心筋症』という心臓の難病になって10年目を迎えた。
この10年で、色々なことがあった。
病名を告知されてからの絶望の毎日。
慣れない体から出る不安や、本当に具合が悪くなって、私は通院日ではない日や、夜中に緊急で何回病院に行っただろうか。
主治医にも当直医にも、通院日ではない日の医師にも、何度暴言を吐いたかわからない。
家族や友人に話しても、腫れ物に触る態度で、私よりも不安な顔をするのだ。
自分の悔しさや辛さ、悲しさをぶちまける場所がなく、私は医師たちに当たった。自分の、変わってしまった体、戻らない心臓、どうにもならないことに苛立っていた。受け容れられなかった。
投薬での改善が、ある程度で止まった時も、主治医❨前主治医❩の言葉と態度にに対して、
「先生は、私の心に勝手にメスを入れ、血が出ているにも関わらず、止血もせずに、縫いもせずに、私を放り出したんだ!治らない病気だから、匙を投げたんでしょうよ!」
と言い放った。
「俺は事実を言っただけだ。匙なんか投げてない!」
と前主治医は言ったのだけど、なかなか収まらないので、違う医師が、
「今飲んでいる薬は、改善させる薬ではないんだ。病気の進行を遅らせたり、進行を抑える薬なんだよ。現状維持に目を向けよう。」
との優しい対応。その言葉で、私は我に返ったのだった。
そうだった。そういう薬だったんだった。
前主治医に、「先生の説明不足だと思うし、事実を言われたことが、不快だと感じたことが具体的にわからない、と先生は言ったけれど、それは、受け取り手が『不快』だと感じたのなら、それは『不快』なのではないでしょうか。』
とまたもや言い放った。
その言葉に対しての先生の反応は、後の診察日に、
「はいはい、言葉足らずでどうもすみませんね。」という言葉で返ってきた。
その後、前主治医が一旦病院を離れる時に、私は自分の考えや思いを話すことになる。約3年半のことを思い出すと、涙が出そうになった。先生は、私に何を言われようと追いだしたりしなかった。泣きそうになったけれど、「帰ったら泣きますからね。」という謎の言葉を私は診察室に残し、帰宅してから泣いた。
なんか今日は、そんなこととか、心臓リハビリのこと、病気が増えたこと、部分麻酔だけれど、3回手術していること、食事制限、運動制限等様々な制限のこと、再生医療の研究のことを知り、希望の光で涙が溢れた日のこと、そのことにより、この7年間、再生医療の某研究所に毎月寄付をし続けていること、、、でもきっと私が生きているうちには間に合わないだろうこと、今の主治医は長いのだけれど、診察時の言葉に、どれだけ救われているかを振り返ってしまったりした。
とにかく、とても濃い時間。
病気になるまでの時間よりも、ずっと短いのに、この9年は。
頑張らない、無理しないと言いながら、結局頑張っちゃう私。この10年間、どれだけ頑張ったんじゃー、私は!
自分の人生に後悔はないのに、
「私も、岸部シローさんのように死んじゃうんだなー。」
と思ったら、
「生まれ変わっても、大好きだった祖母の孫でありたいし、ウチの猫たちとまた一緒に暮らしたい。」
なんて考えちゃって、涙が溢れて号泣したのだった。
昨日の、麹からの甘酒造りに疲れてしまったのも重なったんだろうな。
でも、私だって、心が乱れることがあるんじゃ!
泣きたい日だってあるんだよ。
現状維持って、意外と大変なの。
全然、休憩できない毎日。
私がやらないで、誰がやるというのだ。
大号泣した今日の空は、とても綺麗だった。
空が綺麗だったのか、私の心が涙で洗われだからだろうか。
思いっきり泣いた後は、いつものようにキンプリの歌とダンスを観て、私の心はプカっと浮いてエネルギーがチャージされたのだった。
なんかもう、何を書いているかわからなくなってしまった。
まあ、いいや。