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私の大好きだった祖母は、パーキンソン病でした。
私の育ての親は、母方の祖母と言っても過言ではない。
私は、生まれた時から両親、祖母の3人(後に妹誕生で、4人となる。)で母の長兄の持ち家を借りて住んでいた。(母の長兄は、全国転勤ありの銀行勤務で、しばらくは家族で本州に居住。)
4つ下の妹が生まれると、私はどこに行くにも祖母と一緒だった。
母は、妹の子育てに一生懸命で、私には母と一緒に遊んだ記憶も抱かれた記憶もない。
★両親のことについては、改めて後々書きたいと思う。
カトリック系の幼稚園に通っていたので、一緒に教会に行ったり(祖母も私もクリスチャンではない。)、盆踊り、町内会のお祭り、買い物等、いつも祖母と一緒に行動していた。
祖母と二人でいることが多かった。学校の先生だった祖母。勉強も教えてくれたし、トランプも教えてくれた。
私は、小さな頃からピアノを習っていたので、ピアノを弾くと、
「ピアノを弾くのが上手だねぇ。」と、ニコニコしながら言ってくれた。
そう。私は、褒められて伸びる子供
だった。
たぶん、単細胞だから。単純だからだと思う。
ちなみに、『神経衰弱』は、一度も祖母に勝てたことがなかった。祖母が強すぎるのだ。
幼少時の私は、『気管支炎喘息』だったり、よく転んだり、風邪をひいたり、蜂に目を刺されたり、車のドアに手の指を間違って挟んじゃったりと怪我も多く、とにかく祖母は私を病院に連れて行ったり、看病をしたり、ご飯を作ったりと大変だったに違いない。
そして、こっそり私にお小遣いをくれたので、祖母の背中が曲がって、歩くのが困難になってきた時には、私はひとりでスーパーに行き、お菓子を買っていた。
もしかしたら、これが『私の自立への第一歩』だったかもしれない。
★『気管支炎喘息』は、外で遊ぶようになったり、男子と喧嘩をするようになってからは出なくなった。
けれど今でも、工場の多い場所、海の近い場所に行くと、時々通院することになってしまうのだった。
ピアノと習字も、祖母は習わせてくれていた。習字は近くで。ピアノは公共機関を使って、ひとりで通っていた。時々、鬼のようなヒステリックな母がついてきては、怒られて泣いていた。
とにかく母は、怒っている記憶しかない。
凄まじい怒り方なので、祖母が泣きながら、
「もうやめて。この子は、絶対に出来る子だから。」と。
私は今でも、祖母のその言葉を忘れていない。
困難なことがあっても、
『私は絶対に出来る!』
その根拠のない自信が、私を支えているのだ、今でも。
祖母は、いつだって優しくて、私のことを信じてくれる、私の唯一の味方だった。
しかし、私の成長と共に、祖母の体は弱くなっていた。
近くの病院に通うようになり、だんだんと座っている時間が長くなり、表情も乏しくなり、指が震えて湯飲み茶碗を持てなくなり、歩くときの歩幅が狭くなり、トイレや入浴は誰かがついていないと心配な状態になっていた。
その度に私は、祖母のトイレや入浴について行った。母に頼まれたのではない。自らすすんで祖母の行動に、自然に寄り添うようになっていた。
祖母の歩幅に合わせて、途中で転ばないようにトイレまで付き添い、便座に座ってもらう時のみ母を呼び、
祖母がお茶を飲む時は、指が震えてお茶が飲めないので、祖母の手に自分の手を重ねて、口まで持っていく。噎せないように注意していた。
祖母が通院する時、母が車を運転して病院まで行っていたのだが、玄関から車まで、母と私で祖母の脇に手を入れて、転ばないように車まで歩いた。
【祖母の病気は、パーキンソン病】だった。
当時は、知り合いの医師から、薬の治験の話があったそうだが、祖母が「私はもう歳だから。」と断ったらしい。何年も経ってから知ったこと。
祖母は、祖父(祖母の夫)に先立たれている。いつも、仏壇の前で丸くなった背中のまま、お経のテープを流しながら手を合わせていたことも、私は覚えている。
私は祖母の膝枕が大好きで、祖母が座っているところへ行っては、勝手に横になっていた。
祖母の足は細くて、私の体重で折れてしまいそうな気がしたが、祖母から香る白檀や沈香のお線香の香りが心地よく、母に撤退するよう注意をされたけれど、祖母の更に細くなった手を握りながら、爆睡してしまったほどだ。
そのうち、母の長兄が転勤先から戻って来たので、私たちと住んだ場所に立て替えた家で、祖母は長兄家族と暮らすことになる。
ということで、私たちはその家を出て行くことになり、建設中の家が出来るまでは、伯父の家の近くに家を借りて、時々祖母に遊びに来てもらっていた。
近かったので、祖母の運動のために祖母の歩幅に合わせて、伯父の家に帰る。
私たちの家が出来てからも、祖母は母の運転する車で遊びに来てくれた。
祖母が来る度に、私はピアノを弾いては祖母の顔を見る。
ニコニコしてくれているのが、とても嬉しかった。
時は過ぎ、私は中学2年生になっていた。
ある日の夜、伯父宅から母に電話が入った。
「おばあちゃんが、夕ごはんを食べてる最中に噎せて、救急車で運ばれた!」
と。
急いで、家族4人で病院に向かった。
病室に入ると、祖母はベッドに横になっていた。
母も私も、妹も、祖母のベッドに駆け寄った。
父は、、、祖母のことが嫌いだった。私は知っている。
腰の曲がった祖母が、自宅に遊びに来た時、いつも父は部屋に閉じ籠もったし、祖母が「帰るからね。」と優しく声をかけても、返事すらしなかった。
私と妹は、翌日学校があったので、伯父から帰るように言われ、祖母に声をかけて部屋を出ようとした。
その時!!
視線を感じた。
振り返ると、
祖母がずっと、私のほうを見ている。
真っ直ぐに、私を見ていた。
帰りたくない気持ちを抑え、帰路に着き、翌日学校に登校した。
何時間目だっただろうか。
担任の先生に、「おばあちゃんが亡くなった、と電話があった。すぐに帰りなさい。」と。
自宅に帰り、すぐに病院へ。
祖母には、白い布がかけれていた。
母は、大号泣。その母を支えていたので、私はその場で泣けなかった。
いや、祖母が亡くなったなんて、信じられなかった。
『祖母は、もうこの世にいない。』
そんなこと、すぐに受け入れられない。けれど、淡々と葬儀の準備が進められ、あっという間の祖母とのお別れだった。
祖母の死因は、誤嚥性肺炎。
私は14歳で、育ての親を亡くしたのだ。
離れて暮らして、祖母はさみしかったのではないだろうか。
笑って暮らしていたのかな。
伯父たち家族は、祖母に寄り添ってくれただろうか。