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西山ガラシャの歴史/時代小説
「おから猫」を読んで西山ガラシャという作家を知った。
すぐに他の作品も読みたくなり、2冊を一気に読了。
とても面白かったので、読書メモとして残すことにする。
「小説 日本博物館事始め」
「公方様のお通り抜け」
「小説 日本博物館事始め」
外務省で働いていた薩摩出身の町田久成がある出来事がきっかけで、外務省を追い出されて文部省へ移ることになった。
明治になって新政府は神道の国教化を推し進め、多くの寺が廃寺に追い込まれていた。それにより仏像を川に捨てたりと大変粗末に扱っていたのだ。
久成はこれを嘆き、仏像を拾っては自宅に持ち帰っていた。
「古い仏像は大切に扱われてしかるべきだ」
久成は英国留学の経験があってミュージアムを知っていた。
「日本にも博物館を」
こう目標を掲げて大久保利通を味方につけ、話を進めたいのだが交換条件を出されてしまうのだ。それは「島津久光を東京に移住させよ」という話で、久成は頭を抱えることになるのだった。
大久保の死で博物館の建設が中断されたりと次々に問題が起きたが、明治15年(1882年)3月20日、とうとう上野に竣工された博物館の開館式となった。
初代館長となった久成はわずか7ヶ月でその職を辞した。
俗世を断つために仏門に入ったのだった。
「これをやり遂げる、完成させる」という熱意に心が動かされる。
何事も初めての試みには想像を絶する苦労があるはずだ。果たして自分ならやり遂げることができるだろうか。簡単に諦めたりしないからこその主人公、久成が羨ましい。とても魅力的に描かれていると思う。
「公方様のお通り抜け」
1792年の夏、尾張徳川家の下屋敷である戸山荘(東京都新宿区)。
屋敷奉行の弾蔵は困り果てていた。
半年後に公方様(徳川家斉)が戸山荘に御成になることとなったので、上様(徳川宗睦)から公方様を喜ばせるような庭の仕掛けを考えよと命じられていたのだった。
そこで大百姓だが心は商人の甚平たちと、広大で荒れ果てた庭を美しく造りかえることになった。庭にはもともと山があり、大きな池やそこに架かる橋、茶室や神社仏閣も多々ある。家臣が商人に扮して、殿様の相手をする町屋も存在していたが、何十年も使われていないので、建て替えなければならなかった。
甚平と弾蔵はいろいろな考えを出し合い、大勢の職人を投入して素晴らしい庭を造っていった。
流れ落ちる水量が変わる滝や鬼が潜む洞窟。若い公方様に喜んでもらえるよう、尾張の殿様が庭を巡って案内の予行演習をするところがとても面白かった。公方様の心臓に障るから洞窟で驚かせすぎてはいけないとか、滝で水量調整に失敗して公方様が濡れることは決してないようにとか。
甚平と弾蔵が体調を崩すような緊張の中、とうとうその日がやって来た。
とても穏やかで心温まる作品だった。
庭造りは大成功で公方様御一行は大変楽しまれていた。
1800年に宗睦が病没するまでの6年間に家斉の戸山荘御成は4回に亘り、招かれた大名・旗本に至っては数百人に達したという。
読みながら一緒に庭を体感している気がして本当に楽しかった。
「戸山御庭之図」をこの目で見たいなと思った。