分解空間論 試論 建築における分解を身体から考える

目次

目次 2
序章 出会われる空間 4
0-1 研究背景・目的及び先行研究の検討と分解空間の定義 4
0-1-1 研究背景・目的 4
0-1-2 仮設的空間の先行研究の検討 8
0-1-3 ハイデガーの道具概念 10
0-1-4 分解空間の定義 11
0-2 調査方法 12
0-2-1 文献調査 12
0-2-2 フィールド調査 12
1章 アンダー・コミュニケーションと空間 13
1-0 1章の構成 13
1-1 アンダー・コミュニケーションとは何か 14
1-1-1 目の前の存在と「出会う」こと 14
1-1-2 「生きる」こと 17
1-1-3 均質性への抵抗と「生きる」 24
1-1-4 UCの定義とアンダー・スペースモデル 26
1-2 アンダー・スペースモデルと仮設性 27
1-2-1 永遠性と仮設性 27
1-2-2 方丈庵の仮設性 30
1-2-3 アンダー・スペースモデル 36
2章 建築以下身体以上の存在と分解空間 37
2-0 2章の構成 37
2-1 建築以下身体以上 37
2-1-1 「建築ではないのかもしれない」に含意される視点 37
2-1-2 移動するものたち 43
2-2 「仮」の暮らしに潜む空間的性質と分解過程 68
3章 フィールド調査-キルギスの住居とタイの屋台- 73
3-0 3章の構成 73
3-1フィールド調査-キルギスの住居・ボズユイ- 73
3-1-1 キルギスについて 73
3-1-2 敷地概要と用語について 75
3-1-3 伝統的ボズユイについて 77
3-1-4 宿営地の構成要素と空間構成 78
3-1-5 住居の空間構成 86
3-2 フィールド調査-タイ・チェンマイの屋台- 94
3-2-1 タイ・チェンマイについて 94
3-2-2 チェンマイの屋台活動概要と敷地概要について 95
3-2-3 チェンマイ門広場の構成要素と時間帯別空間構成 99
3-2-4 屋台活動の空間構成 104
3-3 空間的性質の抽出・図化・評価 112
3-4 出会われる空間 127
4章 設計 128
4-1 敷地概要とプログラム 128
4-2 設計 132
終章 総括 141
参考文献 142
謝辞 143


序章 出会われる空間


0-1 研究背景・目的及び先行研究の検討と分解空間の定義

0-1-1 研究背景・目的

一時的なものに見る何かと何かの「出会い」に興味がある。一時的という言葉を建築的に考えると、例えば遊牧民住居や路上屋台、災害用住宅など様々なシチュエーションに見られるような、ある時間的スパンでなくなることを前提に作られる仮設性をもった空間が思い浮かぶ。しかし、そのような仮設性をもつ空間に見られるような時間的スパンでなくなるという切り口以外にも一時的な空間性は見られるように思う。それは変化を受け入れるものである。例えば蟻鱒鳶ル (図1)のように連続する組み立てを通した変化を受け入れる建築物は常設という言葉では語れない。

画像1蟻鱒鳶ル 設計/岡啓輔

確固たる形を有しないものに対して、時間的な揺らぎを感じることで一時的な質を感じるのであって、これはつくるという活動それ自体に時間的質を見ることによる。大きくは万博施設のように解体を前提にする仮設性をもつ空間がある一方で、その一時的な質は私達の身体を使った身振りを通して、変化を受け入れる建築にも現れる。ここに一時的なもののダイナミックな面白さがあり、空間の仮設性を考えることは建築と人の間の様々なありようの探求へと繋がるはずである。市民-行政間における建築的実践から、身振りとの間に幅広く姿を現す仮設性に対して、どのような言葉を用い説明できるだろうか。例えば私たちが普段の生活でも目にする雨やどりという行為は、一時的な現象であるが故に身体の仮設性と呼ぶものの端部が見え隠れする。その身体の仮設性をテーマに扱った歌手さだまさしの曲は、空間の仮設性を考える上で重要な視点を示唆するように思えてならない。

それはまだ私が神様を信じなかった頃
九月のとある木曜日に雨が降りまして
こんな日にすてきな彼が現れないかと
思った処へあなたが雨やどり
中略
いきなりこんな大事なお話を
信じろというのが無理な事です
だってまさかあなたが選んだのが
こんなに小さな私の傘だなんて
あわてて駆け出してしまった胸の鼓動を
呼び戻すために少しだけ時間をください
涙をこっそり拭う間だけ時間をください
そしたら 

画像2「風見鶏」 さだまさし 1997

さだまさしは、雨やどりという一時的な現象に人との「出会い」をみた。前半の雨やどりという言葉は、出会いのメタファーとして後半の小さな私の傘という詩の中に建ち上がる。雨やどり、それは一時的な偶然による滞在として起こるものであるが、故に詩として記述されるほどのパワーを持ち主題化する。最後の「そしたら」という言葉には、雨やどりが終わりそれぞれの方向へと向かうものたちの動きが垣間見える。一時的であるが故に、そこには省略された前後の文脈が必ず存在し、私たちの思考はその間を行ったり来たりする。そして一時的な身体のありようとしての身振りに見るこの「出会い」という視点は、雨やどりをする人とその周りを漂う現象との関係においても同様に展開され、空間の仮設性へと繋がっているように思える。

雫の滴る軒下からは、いつもと違う街の風景が見えます。肩をすぼめて小走りに通り過ぎる人々や、雨宿りの軒先からバスに駆け込む人々、きゃーきゃー騒ぎながら手を頭のうえに当てて走り去る子ども、今ぞとばかりにファッショナブルな傘を大きく広げて歩くご機嫌な女性、これとは対照的に、かつては傘であったろうと思われる支柱付きの布切れを悠然とかざして歩く婦人、中にはビニールの鞄を帽子のようにかぶって歩く人々や、買い物袋を肩の上に器用に載せて道を急ぐ人々もいます 。キルギス便り p8 渡辺健二

手を頭にかぶせるような即興的な身振りとの関連が見られる一方、この動的な視点には空間の問題が含まれる。雨やどりを可能にした場所が、身体を受け入れた結果、「出会われる」空間となる(図3)。渡辺は著書の中で、雨やどりの軒先からの風景を主題に、空間との「出会い」を描写した。軒先を間借りした視点からは、普段見落としていたものに思いをはせる空間がある。身体の仮設性としての身振りは、このように場所との関係を浮き彫りにする視点を、間借りした結果起こる「出会い」という言葉を通し投げかけ、それは空間の仮設性へと繋がる。ここから、身体の仮設性は何かと何かの「出会い」を生み、それは例えば間借りによって一時的に「出会われる」空間を生むものであると言える。即興的な身振りも、突拍子もない何かとの出会いが故に起こるものである。このように、身体の中に何かとの「出会い」という視点を持ち込むことで、空間の仮設性は「出会われる」空間として私達の前に出現する。間借りすることについて少し考えてみると、それはある場所に立ち止まることである。イーフー・トゥアンは立ち止まるという行為の中に、場所に対する感情の深さを強める働きを指摘する 。空間の経験p242 

イーフー・トゥアン人はそこで起こる親密な経験を通して、ある特定の場所に対して愛着を抱くようになる。そしてこの経験を通した場所をトゥアンは根拠地として紹介する。根拠地で立ち止まった人は、その場所に対しての愛着と出会うのである。根拠地は、例えば家としてあり、病気を患った人は家での看病を通して、家への愛着を育む。たとえ一時的であっても、立ち止まるという事実は感情を生む。仮設的な根拠地は、間借りされた場所としての場合もあれば他の場合もあるだろう。一方、建築的な現象としての遊牧民住居や路上屋台などは、場所と空間の「出会い」による空間の仮設性と呼べるものが関わるはずである。そこには、ある場所をある空間が間借りするという視点が生まれ、本研究で問題にする「出会い」による空間の仮設性は、このような場所と空間の「出会い」という視点抜きには語ることはできない。なぜなら、身体と場所の「出会い」が雨やどりのような「出会われる」空間を生むように、場所と空間の「出会い」が仮設性をもつ空間を成り立たせると考えるためである。間借りした上で一時的で仮設性がある根拠地をつくるこれらの空間では、どのような形で人-もの-場所の「出会い」があり、どのように「出会われる」空間が作られるのか。

画像3

ゲルは定期的に分解することが出来る、常に間に合わせの家屋である。しかしそこにはその氏族、先祖、家族の伝統や技芸や歴史が宿っているのだ。遊牧民の野営地は人びとが行き交う舞台である 。暴力と輝き p37 アルフォンソ・リンギス

哲学者のアルフォンソ・リンギスは遊牧民の野営地をこのように記述し、その行き交いの中に何かとの「出会い」を見た。根拠地である野営地は、遊牧民にとって一時的な舞台であり、「出会い」の場であった(図6)。このような空間のありようを探ることで、人-もの-場所の関係を考えてみたい。それは建築設計における新たな視点をもたらしてくれるはずである。
本研究の目的は空間の仮設性に見る、人-もの-場所の出会い方の考察を通した「出会われる」空間の探求である。空間の仮設性に見られる「出会われる」という現象、それを現代建築における処方箋として捉えることで、建築設計における新たな視点の獲得を目指す。この新たな視点について、アンダー・コミュニケーションという概念を援用して説明する。レヴィ¬¬=ストロースは、現代の課題としてオーヴァー・コミュニケーション社会化していることを挙げた。オーヴァー・コミュニケーションとは遠い地での情報を他の点から受け取ることができるものである。オーヴァー・コミュニケーション社会で行われる、文化を単に消費する姿勢を批判的に捉えた一方で、アンダー・コミュニケーションの状態において文化は何かを生み出し得ると述べた 。ここで言われていることをかみ砕くと、オーヴァー・コミュニケーションは非対面型であり、アンダー・コミュニケーションは対面型である。そしてアンダー・コミュニケーションにおいて行われるのは、他の点からの情報に左右されないという意味での目の前の存在との「出会い」である。レヴィ=ストロースは対面型のコミュニケーションを重要視したが、ここに空間の仮設性を問う可能性を見たい。後述するように仮設性を孕む空間は、そうであるが故に目の前の存在とのやり取りが欠かせない。ある場所に人が間借りできる余地を見出すことで雨やどりするのと同じように、遊牧民は野営地の状況を鑑みて家を建てる。「出会われる」空間はアンダー・コミュニケーションにおいて可能なのであり、アンダー・コミュニケーションにおいて成り立つやりとりは時に仮設性を持つ。本研究ではこのような視点から、アンダー・コミュニケーションのもと起きる人、もの、場所の「出会い」を観察・調査していくことで、新たな「出会われる」空間を得る手法を探求する。

0-1-2 仮設的空間の先行研究の検討

仮設性をもつ空間(以下仮設的空間)を対象とした先行研究は少なからずある。仮設性についての検討は後述するとして、以下ではまずそれらを対象とした先行研究の検討を行う。
仮設的空間としての住居に着目したものも多く、本研究でも中央アジアの仮設性的空間であるボズユイと呼ばれる天幕住居に着目した調査を行う。
村田は、ユルタと呼ばれるような遊牧民住居を天幕と定義づけ、そこに方位や位置による一定の規則があることに言及した[村田1992]。村田の定義では、移動可能な住まいのうち骨組みと被膜で構成されるものを天幕としている。またこの研究で村田は、仮設性という言葉を住まいの原型の表出に結びつけ言及している。ここでは天幕を大きく2系統に種別している。1つは北アフリカのベドウィンや中東の遊牧民に見られる矩計平面であり、もう一つは中央アジア、ユーラシア・ステップの遊牧民の天幕に見られる円形平面である。ボズユイもこの円形平面の住居である。村田の研究からも分かるように、仮設性と身振りは結びつきが強く、主体的な構築実践の内に人は小宇宙的な世界観をつくってきた。それは中心と周縁、右と左、奥と手前により男女の居場所が違うなどのコスモロジーとしてあり、そこには家の象徴性と身体の関係がある。天幕の起源は約3万年前とされるが[村田1992]、そこに言及し意味を探ることは人間活動の根本に迫るものと言ってよいものであり、その点で村田の先見的研究は評価できる。しかし村田は、仮設性という言葉に着目こそするものの、例えばどのように場所を間借りするかなどには触れていない。他に天幕に着目するものでは、野村らの研究がある。野村らは中国内モンゴルの天幕に着目しその生活実態を調査した[野村・中山 2008:1735-1742;2010:1917-1923]。そこでは、行政の介入により変化する天幕の使用状況に言及している。牧畜民の間に広まった固定家屋と天幕の関係は様々であり、人々は自らの生活状況に合わせて天幕を有効活用している実態が分かる。野村らは天幕について、第1に生活の場であるため1つの空間で就寝・食事・信仰等多様な機能を持った居室としている。しかし、その多様な機能を持った居室がどのような身振りで使われているか具体的には触れていない。本研究ではこの点、一時性を孕む仮設的空間における身振りと場所の関係にも着目する。
住居以外の仮設的空間を対象としたものでは、市場や街路空間、路上の屋台活動に言及するものがある。本研究でも東南アジアの市街地における屋台活動に着目した調査を行う。
 市場や街路空間に着目するものでは、フランス・パリやトルコ・イスタンブールでの高木・鶴田、カンボジア・プノンペンでの脇田らのものがある[高木・鶴田2007;脇田・白石2008:1939-1945;2010:587-594]。これらの研究は市場の空間構成について言及しており、高木らは市場の都市空間を変化させるものと捉え、そこに賑わいの創出を見る。高木らは市場を大きく2つの形態に類型し、1つは線状に連なるもの、もう1つは面的に広がるものであるとした。脇田らの研究では、市場の中でもより仮設性の高い市場形態に着目し、1つ1つの店舗の具体的な空間構成にまで言及した。ここで言う仮設性とは、構造的な変化による機能性の拡張を意味したものであり、部材の組み立て活動などによるものである。ここでは商品の陳列方法における具体的な振る舞いとして、吊るす・立て掛ける・置く・重ねる・並べるといったものが挙げられている。また店舗空間からの物品のあふれ出しに言及し、通路空間の変化を具体的に述べ、仮設性によるフレキシブルな空間構成の在り方を見出した。その上で通路における行為を通行・作業・会話・遊び・店番・休憩と類型しそれぞれを通行・業務・生活に関するものとした。ここでは、仮設性により通路空間が業務・生活の場としても機能していることを述べた。本研究では、脇田らの視点に依拠しながら通行・業務・生活に関わる行為をそれぞれ既存の場所と相互に関わり合っているものとし、複層レイヤー的に見たときの人-もの-場所の出会いを通し仮設的空間に言及する。
 また、街路空間の活動に言及したものでは日本・千葉での奥平らやタイ・バンコクでの坪井らのものがある[奥平・郭・斎藤・北原 2008:161-167;坪井・北野・渡邊・秋山・渡邊 2010:93-102]。奥平らは複数のパラソルによる仮設的空間に着目し、それによるアクティビティ生成に言及した。その中で、歩行者は仮設的空間による刺激により積極的な体験をしていることを述べた。また坪井らは、街路空間における屋台・露店活動に着目し、それらを日常生活行為と一体となったものとしている。
仮設的空間の中で路上の屋台活動に言及したものでは他に、中村らのものが挙げられる[中村・古谷2010:595-602;2011:583-591;2011:755-762]。中村らは、非合法性と呼ぶ性質から起こる屋台間のコードの存在に言及し、屋台活動の様態を記述した。これは実践者の具体的な行動をコードで類型化することで、特定の見えない境界を示すものとした点で示唆に富むものである。


0-1-3 ハイデガーの道具概念

 本研究では、「出会われる」空間の設計手法を探るため、ハイデガーの道具概念に依拠した分解空間と定義するもののフィールド調査を行う。これは分解と組み立てを伴う仮設的空間に適応可能なものである。この分解空間を定義する上でハイデガーの道具概念の整理を行う。ハイデガーは存在一般の意味の究明を行う際、私たちの身の回りにある道具の存在を手掛かりに言及した。

一般に道具というものはそれだけ孤立して存在するということはない。金槌は釘を打つために、釘は板をとめるために、といったふうに道具は<……のために>という形かたちでたがいに指示し合い、一つの連関をなしている 。

木田は著書の中で、ハイデガーの道具概念をこのように簡潔にのべたが、ここから道具とは、<……のために>という相続関係の一連の総体としてあることが分かる。様々な道具はこのようにして、道具それ自体では存在しないものとして、存在論的に私達の身の回りにある。またハイデガーはその流れで、最初に出会われる道具は部屋としている。

一番先に出会うものは、主題的に把握されはしないが、部屋である。そしてそれも、幾何学的空間の意味で「4つの壁の間」としてではなく―住む道具としてである 。

このように、道具という概念は手もとにあるものを基本としながらさらなる周辺へと拡張する。それは道具が、「いつもほかの道具との相続性にもとづいて存在している 。」からである。本稿ではこれに依拠しながら身体性を拡張したものとして道具を捉える。そのような道具たちは相関的に他の存在と持ちつ持たれつの関係を結ぶ。ハイデガーが部屋の存在を一種の道具と位置付けしたのと同様、本稿で対象とする仮設性をもつ空間を身体の外部に存在する道具的なものとし、そのような空間と関連して存在する場所もまた、道具的に扱われると仮定する。
0-1-4 分解空間の定義

本研究では「出会われる」空間の設計手法を探るうえで、上述のハイデガーの道具概念に依拠した分解空間と呼ぶもののフィールド調査を行う。本研究では、仮設的空間において、アンダー・コミュニケーションを通した場所への主体的な関りの下に道具的連関が見られるものを分解空間と定義し、分解空間の一見身勝手で独特の様相は、恣意的な空間の創出を起点とするのではなく、空間の分解を念頭に入れながらものや場所を扱うことで空間が組み立てられるためであると仮定する。ここに、仮設的空間と分解空間を分けて考える意義がある。空間の分解とは、端的に言えば分解という行為を通した場所の現状復帰活動である。それは仮設的空間としての住居や路上屋台の活動に見られるような、主体である実践者や客体である協働者による、ある場所から-立ち去る-という最終目標へ向けての、分解を通した関りを含意したものである。ここでの協働者とは、人のみならず、車などのものや動物も含まれる。本研究では、分解空間の構成要素を、人を基点にした行為からものや場所に広がる関係性の総体として扱うが、これはハイデガーの道具概念に依拠した関係性で空間が組み立てられると仮定するためである。
また、分解空間における諸実践を道具的連関に照らし合わせたとき、消費のためのものを生計のための道具として扱う。分解空間において実践者は一つ一つの要素を<……のために>にあるものとし、別の何かに関連付ける。その結果として現れる分解空間では潜在的有用性-まだ何かの役に立つこと-を見出す対話が人-もの-場所との間に発生し、そのやり取りの中で空間がつくられる。例えば分解空間の構築過程において、実践者は既存敷地のある一定の範囲をものの置き場とする。既存敷地に対し、ものを動的、道具的に使いこなすことで、ものと敷地である場所が「出会う」のだ。他者からすれば時に勝手気ままとも言える敷地の使いこなしは、実践者固有の道具連関を含むが故に極めて個人的なものである。この個人的な連関としての道具的空間実践を介さない、非身体スケールを持つ万博施設や災害用住宅のような仮設的空間には-立ち去る-ということを念頭に置いた中での分解を通した主体的実践がないため分解空間とみなすことはできず、本稿の調査では扱わない。
分解空間においては、目の前にあるものを分解し、または分解されたものを再構成して空間が作られる。一方通行では完結しない対面相互関係をものや場所と結ぶことが含意され、それ故に分解空間はアンダー・コミュニケーションを可能とする。そしてそこでは積層した関係性による複層レイヤー的な人-もの-場所の出会いがある。分解空間における一見単調な実践はある固有の道具的連関により下支えされ、その在り方は分解空間ごとに異なる。そのような中で、人-もの-場所との出会い方にはある程度の一時性や即興性が含まれており、それが一見すると身勝手とも受け取れる空間の様相へと繋がっていると予想される。

0-2 調査方法

以下に本研究での調査方法を述べる。

0-2-1 文献調査

本研究では、「出会われる」空間の設計手法を探求するために、分解空間における人-もの-場所の出会い方のありようを調査する。その調査をレヴィ=ストロースのアンダー・コミュニケーションという概念に依拠し行うため、その概念定義を文献調査から行い、その概念を基点に展開される空間をアンダー・スペースモデルとする。

0-2-2 フィールド調査

本研究では、文献調査にて定義を行うアンダー・コミュニケーションに依拠した空間、アンダー・スペースモデルを適応できるものとして、仮設的空間である天幕住居と屋台の活動を選び、実際にフィールドに赴いて調査を行う。その際、-分解し立ち去る-という主体的実践を念頭においた、ものや場所への空間的操作を、一時性、即興性等に焦点を当て調査する。またそれらを形作る人-もの-場所の関係の中の空間的性質を出会われる空間の設計手法として抽出、図化を行う。本研究で扱う資料は2019年3月9-17日、8月5-8日、8月16-22の調査で収集した。調査内容は配置図平面図調査(14件)及び住居・屋台の実測調査(1件ずつ)、実践者への質問調査(7人)などである。


1-1 アンダー・コミュニケーションとは何か

空間の均質性への抵抗を考える上で、レヴィ=ストロースが述べるアンダー・コミュニケーションの概念はとても興味深いものである。第1節では、アンダー・コミュニケーションの定義付けを、社会学者ジョン・アーリの言説や多木浩二と布野修司の生きられた空間の概念、ハイデガーの「詩人のように人間は住まう」と題する講演の内容などを引用しながら行う。またその定義に依拠するものの見方でみた空間を便宜上アンダー・スペースモデルとし、アンダー・スペースモデルを考えることは均質性の問題へのアプローチになることを示す。

1-1-1 目の前の存在と「出会う」こと
 
現在私たちを脅かしているのは、オーヴァー・コミュニケーションとでも呼びうるものでしょう。つまり、世界のある一点において世界の他の部分で何が行われているかをすべて正確に知りうるようになる傾向のことです。ある文化が、真に個性的であり、何かを産み出すためには、その文化とその構成員とが自己の独自性に確信を抱き、さらにある程度までは、他の文化に対して優越感さえ抱かねばなりません。その文化が何かを産み出しうるのはアンダー・コミュニケーションの状態においてのみなのです。私たちは今、単なる消費者になり、世界のどの地点のどの文化から得られるものでも消費できるけれども、独自性をすっかり失ってしまうのではないかという展望に脅かされています 。神話と意味 p27 レヴィ=ストロース みすず書房

文化人類学者のレヴィ=ストロースは文化との関係においてオーヴァー・コミュニケーション(以下OC)とアンダー・コミュニケーション(以下UC)の2つのコミュニケーションを挙げ、これに続いてカナダ西部のガンギエイの神話を引用しながら科学的思考と神話的思考の共通点として、2項性の問題があることを述べた。コンピューターが持つイエスかノーかの2項操作という概念が神話の中にも見出せることに触れつつ、それは科学的思考を私たちが持つようになったが故に神話的思考の一側面を理解できるのだとする。そのように、科学的思考と神話的思考は断絶するものではないことを述べたが、ここにOCとUCの関係の比喩が見て取れる。彼が言うのは、OC的な思考とUC的な思考は対立の極致にあるのではなく、一方があることで他方が成り立つ、持ちつ持たれつの非断絶の関係があるということである。「進歩は、相違を通してのみなされてきました 。」と述べるのはこのためであり、この2つのコミュニケーションの相違を確かめることは無駄な事ではないだろう。その上で、レヴィ=ストロースは2つのコミュニケーションに対してUCにおける創造性に言葉少なに言及している。この前提には、もちろん彼が野生の思考と呼ぶ無文字社会の思考があるだろうが、ここでは立ち入った話は避け、OCを認めつつも同様にUCにおける創造性を認めているということを確認するに留める。さて、この上で消費という観点から彼が言及したのが、近代化の過程の中で生じてきた時間/空間の問題である。OC的な消費の中で私たちは時間/空間の関係を変容させてきた。それについて、社会学者のジョン・アーリの言説を繋げることで考えてみたい。彼はTVのようなメディアの発達に依拠しながらこう述べる。

断片的な話の寄せ集めが地理的な脈絡なしに社会生活へと侵入し、またその社会生活を形作るという、ほぼ文字通りの時間-空間の圧縮がそこに見られる 。場所を消費する p38 ジョン・アーリ 法政大学出版局

ここに、レヴィ=ストロースが述べたOCへの解釈の手助けとなる言葉がある。TV的な消費に代表されるような時間/空間の圧縮である。「世界のある一点において世界の他の部分で何が行われているかをすべて正確に知りうるようになる傾向」とはこのような時間-空間の圧縮に他ならない。本来私という個人の存在が知り得ることは、目の前に存在するもののことであるのだが、近代化における科学の発展はこの目の前の存在との出会いを飛ばし、他の点の存在を近づける。ジョン・アーリはさらにTVのザッピングにおける時間と空間の断片化に言及しながら、そのような中で見せられる広告を前後の文脈を欠いた表現と言う。そしてこのような視覚メディアの加速化と断片化が「難解な書物を始めから終わりまで読み切るような集中力と根気を次第に困難にする 。」と述べる。ここでもOCに対するUCの関係が言及されている。ジョン・アーリが述べたのは、OC的な時間/空間の加速化と断片化による圧縮が目の前の存在との出会いを難しくしているということだ。そしてそれを「刹那的な資本主義」の成長と呼ぶ 。筆者の身の回りのことで思い返してみると、このことはとても腑に落ちる。筆者の世代は所謂SNS世代である。mixiに始まり、facebookやTwitterなど、他の地点での出来事を想起する手段には事欠かなかった。SNSを確認し、今居る場所から遠い地へ思いをはせることも多々あるが、それはどこに居ても、誰と居ても起こり得る。人と居る時にSNSを確認しては、目の前の存在から視線を逸らすこともしばしばである。このような状況をレヴィ=ストロースは想像したのだろうか。出会いが成り立つのは、何もUCに限ったことではなく、目の前の存在を飛ばした上で遠い地での出来事と出会うこともあるのである。  
しかしレヴィ=ストロースが言ったものがこの時間/空間の圧縮の問題に繋がるとして、OCに対置できるのは目の前の存在との出会いのもとにあるUCであり、それはアーリが「刹那的な資本主義」と呼んだものに寄りかかりつつも抵抗する1つの在り方と言えるだろう。そのような意味で彼は、「その文化が何かを産み出しうるのはアンダー・コミュニケーションの状態においてのみなのです。」と述べたのではないだろうか。ここで、このUCとしてある、目の前の存在との出会いを通した抵抗はいかに可能かという問いが出てくる。次項ではこれを、多木浩二の生きられた家とは何かという問いに繋げることで考えてみたい。

1-1-2 「生きる」こと

多木浩二は生きられた家とは何かという問いの中で、日本の家に物質的世界と感覚的世界の2つの世界を見た上で、「生きる」ということについて語った。

保存の良い古い民家、あるいはさほど古くなくても十分美しい家においてまず発見するのはこの感覚的世界である。それらは、視覚的というより触覚的な世界、たとえば土間の叩きの感触、太い梁、あるいは磨きぬかれた1枚板の板戸や、土蔵の清潔な白さ、そこら中にある民具の快い手ざわりである。日本の家のひとつのたのしさは畳のひいやりとした感触にある。それらは意味の解釈には決して入っていかない以前に1種の快楽を味わわせるのである 。

このようにして、触覚的にみるものを感覚的世界と呼び、それに対して物質的世界を対置する。多木の言う生きられた家はこのような感覚的世界をもつものである。

感覚的刺戟は木や石や土など物質的なものからきて、私のその場への住みつき方-それを私は「知覚」的活動とよぶのだが-をひきだすのである。同じ土でも叩いたものと、ただ軟らかいだけのものとはちがう。同じ木でも白木と漆をぬったものとではまたちがった感覚をもつ。ステンレスやプラスチックでも同じである 。

ここに、触覚による感覚的世界という目の前の存在との出会いを通した関係を「知覚」的活動として言及していたことが伺える。また多木は続けてこう述べる。

家の物質的世界と呼んでいるものは、それらの物質の表面の性質に依存している。つまり眼で表面にたわむれ、表面の触覚を織りあげるのである。感覚的世界はその快楽に終始する 。

物質的世界と感覚的世界の相互関係を多木は見逃さない。物質的世界の表面との出会いがあるからこそ、触覚を通じた感覚的世界が成り立つのだ。ここに、レヴィ=ストロースの述べるUCの質を見ることができる。UCは物質的世界-表面としての目の前の存在-と、感覚的世界-触覚による目の前の存在への接近-による両者の出会い-「知覚」的活動-を通した上で成り立つ。多木の言う物質的世界と感覚的世界の相互関係そのものがUC的であると言え、レヴィ=ストロースはそのような意味でUCにおける創造性に言及したのではないだろうか。多木が「事物が輝きをおび、それ自身の豊かな主張がはじまる 。」と言うのは、UC的である物質的世界と感覚的世界の関係の中で創造的行為がみられ、そのような相互的関係の中で「生きる」という具体性を帯びた現象が起こり得るためである。だがこの関係性は部分であって全体ではない。相互作用の中での「生きる」という現象を、多木の言説からもう少し追ってみることでかすかながら全体が見えてくる。

日常生活とは、世界を記号として解読することに支えられてなりたっている。「生きられた家」という場合にも、その「生きる」ことはこのような記号化とその解読が含まれるわけである 。

多木は「生きる」という言葉に、記号化とその解読というものを含意して、生きられた家を示した。UCはこの、多木の言うような意味での「生きる」という視点に依拠した人-もの-場所の出会い方に他ならない。それは目の前の存在との出会いを通した記号化とその解読の過程を含むのである。物質的世界を感覚的世界でもって語るところにそれが含まれ、一種の創造的な行為となる。例えば多木はシュヴァルの理想宮と呼ばれるものにハイデガーの「建てることと住むこと」という制作と人間存在が一致した存在概念を適応し、そこに一種の創造性を見る 。

かれらにはいくつかの特徴がある。まず第一に、住みながらつくりつづけることがあげられる。中略 つまりかれらは生きているかぎり決して建てることを中断しないのである。これは今日の大多数の人間が、商品を買うようにしか家を買わないのと対照的な態度である。文字通り、建てることと住むことを一致させている 。

このように、多木は、彼らの家をハイデガーの言説に沿うような形で紹介する。それは、「生きる」という動的な記号化の過程の中にいる、空間を制作する主体の存在を見捨てないことに繋がる一方、それらを現代の日常に適応することは難しい夢のようなものといい、それらが表出するのは無意識のおぞましい世界においてであると述べる。シュヴァルの理想宮のようなものはとても個人的なものであるが故に、非合理な表現と言い切る多木は、レヴィ=ストロースのブリコラージュの概念 を関連させながらこう述べる。

かれらは地下空間を掘る場合でも全体の計画などしていない。できあいの材料をできあいの知識と材料を頼りに、なんとかつくりあげる。もちろん、その場かぎりでは目的は明確であり、仕上がりのイメージをもっているが、もともと完結することのない過程でしかない。かれらは既存物を利用する。しかし、全く自分だけの文脈のなかで機能を転換し、そこから隠喩がひとりでに生じてくる。われわれが夢のなかで行っている隠喩化、つまり圧縮や置換と同型の過程が、かれらの作業にそって生じてくる 。

多木はここで、夢のなかで行っている隠喩化という言葉を使い、「生きられる」記号化と解読の過程による創造性を説明する。シュヴァルの理想宮のようなとても個人的な主体によって動的につくられる空間は、それ独自の過程を内包するが故に非合理だが象徴性をおびた具体物として迫り、生き生きとした様を帯びるということである。多木はここで即興的に使いこなす様を説明せず、夢という隠喩を使用しその動的な過程を描写するが、ここにUCの1つの在り方を見ることができる。
多木が夢という言葉を使い迫りたかった核心は、シュヴァルのような目の前の存在との出会いを通したとても個人的な作業には、個人的でその場限りであるが故に、建てることによる独自の記号化と解読の過程と象徴性としての夢があり、その様が「生きる」という具体的な現象として私達に感じられるということである。しかし、ここで多木がブリコラージュという言葉を含意した意味はなんであろうか。その真意を見逃さないためにブリコラージュという言葉を確認してみたい。ブリコラージュは元々文化人類学で用いられる用語である。レヴィ=ストロースはそれを野生の思考や神話的思考に見だした。それは、人とものとの間に起こる出会いのありようであり、潜在的有用性-まだ何かの役に立つということ-をブリコラージュの実践者であるブリコルールがものに見出すという形で行われる。そしてそこには人-ブリコルール-とものの対話-ブリコラージュ-があるという 。ブリコルールとはありあわせの間接的な方途を用いて、自分の手でものを作る人であり、神話的思考において見られたのは上述の意味において自分を表現する一種のブリコラージュであった 。自分の手でものをつくる人がものに見出す潜在的有用性は、その材料の限度から、あらゆる目的に利用可能ではない。目の前の存在としてのものに無限大の可能性はなく、ものにはある一定の枠組みでものが持つ物質性という形が課せられる。この物質性により事前拘束を受けるブリコルールとものの関係により、ブリコラージュは恣意的ではありえない。この恣意性の無さから、ブリコルールはものとの対話を行う必要が生じるのだ。この時の対話は、「つくり手としての我を通すのではなく、ものに譲歩しもののために場所を空けておく 」という形を取ることになる。

ブリコラージュの拘束性・非恣意性とは、ブリコルールの自己のうちに「他者」と化す「もちあわせ」のための「空洞」があることであり、ものづくりを通して、あり合わせのもの・環境世界・自己との関係が捉え直されているのであれば、そこにはブリコルールの「自己」に変容が生じていると考えるべきなのである 。

ブリコラージュとは、自身のうちに他者としてのものを受け入れることであり、そのうちに起こる人とものの出会いは自身を変容させる。このように、ブリコルールそれ自体の変容を視野に入れて多木は「生きる」という言葉を使ったのであろう。ここで新たに、「生きる」という言葉に自己それ自身の変容が含意されていることが見出せる。この「生きる」という言葉の中には、目の前の存在との出会いによる記号化と解読の過程における自身の変容が含まれるということである。UCはそれを可能にする状態のことであり、冒頭のレヴィ=ストロースの言説において言及されたUCにおける創造性が含意するのがこのことである。それは人-もの-場所との対話を通した自身の変容であり、つくることでまたつくられるという関係である。多木が述べた物質的世界と感覚的世界の相互作用における夢とは、目の前の存在との出会いに見る自身の変容でもあるのだ。また、この「生きる」という多木の言説の根底に響くのが、哲学者ハイデガーが「詩人のように人間は住まう」と題した講演の中での詩についての描写である。ハイデガーはヘルダーリンの詩の一句「…詩人のように、人間は住まう… 」を引用しながら、詩人のように住まうとは何か、詩を詠うとは何かという問いを投げかける。

同一であることと、一致することは、決して同様であることとは違うし、また単に同じようなものが意味のない1つのものとなったものとも違う。同様であることとは、両者の間に差異がないこととつねに置き換えられる。同様であることとはこの差異が無いという点に尽きるのである。これに対して、同一であるとは、差異を介して出会うことで、異なるものが一体を成すことである。差異の区別が考えられる時にのみ、われわれは同一であることが言える。差異を有し続けているから、出会い集まるという同一なるものの本質が明らかになるのである。同一であるとは、異なるものが同様なるものとして均一化しようとすることを阻むのである 。

同一であることは差異を介して出会うこととしたハイデガーは、それを天上に潜む神的な存在と自らの距離を測ることに当てはめて「人間とは人間である限りつねに、何か天上的なものにてらして、そして天上的なものに促されて、すでに自己を測っているのである 。」と述べる。そうして、詩を詠うことを何か天上的なものを見据えて同一のもと測ることであると言い、ヘルダーリンの詩から、詩人のように住まうことは測ることであるとする。

測る行為とは、一般的にまずある尺度が採用されて、その尺度にてらしてそのつど測るということである。ところが詩を詠うことにおいては、尺度を取るということが行われるのである。詩を詠うとは、語のもっとも厳密な意味での尺度を受け取ることであって、これによってはじめて人間は自分の存在の広がりについての尺度を受け取ることになるのである 。

ここに多木の言う「生きる」という言葉との繋がりを見たい。独自の記号化と解読の過程による象徴性は、詩を詠うことにおいては天上的なものと自己の距離を測ることに置き換えられる。それは何かの存在と同一のもと出会うことであり、差異による一体化を通して行われる。つまり、多木が言う「生きる」とはある尺度を借りた生活を行うことではなく、目の前の人-もの-場所との出会いにより「自らがある尺度をつくりだす生活の仕方」ではないだろうか。そしてそれは記号化と解読の過程を通した自身の変容を伴いなされる。シュヴァルは建てることにおいて住んでいたと同時に、建てることにおいて詩を詠い、独自の意味で散りばめられた意味の網目としての家をつくることでまたつくられていたのである(図17)。

かれらの家のもっともユニークな点は(かれら自身にはそうは思えないだろうが)、それが夢の中で出会う風景に似ていることである。つまり、外界の理性的秩序とかかわりなく結びついた諸断片の非合理な集積であり、それはどんなにキッチュであっても夢と同様にかれら自身について語りはじめる 。

多木が「生きる」ということの独自の記号化と解読の過程による象徴性が家となり、作者の自身のことについて語りはじめるテキストとして扱うのは、詩人のように住まうことを想定しているからに他ならない。そして、UCとはこのような「生きられた」テキストを綴る出会いであり、それは目の前の存在が「生きる」という具体性を帯びた出来事となって私達に迫ってくる創造性を帯びた在り方である。エドワード・レルフは著書において、引用文とともに生きられている空間について述べている。

「我々は空間を自らの感覚だけで把握することはできない。……我々はそこに住み、その中に自らの人格を投影させており、感情的な絆でそれに結びつけられている。空間はただ知覚されるのではなく……それは生きられている。」空間は決して空虚なものではなく、人間の意志および想像と、空間そのものの特性との両方に由来する内容と実体を持っている 。

空間を内容と実体という2項で見る視点は、多木の物質的世界と感覚的世界という視点とも重なる。ここで言われている空虚なものではないという視点は生きられた空間にはかかせなく、ともすれば、目の前の存在との独自の出会い方であり、それは満たされながら「生きる」ことに繋がる。このことが、アーリが述べた「刹那的な資本主義」に抵抗できる1つの方法であると言える。またイーフー・トゥアンは生活に含意される意味についてこう語る。

生活というのは、生きられるものであって、パレードの行進のように道端から見物されるものではない 。

「生きる」こととは、パレードの行進という比喩を借りるならば、行進への主体的な参加である。そこにあるのは、自ら動き、見物客と応答し汗をかく行進があるはずだ。
ここまでUCの1つのありようを確認したところで、次項では布野修司の均質空間と生きられた空間の問題を、「刹那的な資本主義」への抵抗と繋げて考えてみたい。

1-1-3 均質性への抵抗と「生きる」

布野修司は、著書において近代化の過程の中で発生した空間を均質空間と呼び、それに対置できるのが生きられた空間であると述べた。

「均質空間」とは、どこでも同じ質をもった空間のことである。等方等質で、無限に広がるデカルト座標の空間、ニュートンの絶対空間の中の空間である。その空間イメージの建築的表現を目指したのが近代建築なのである 。

アーリの言説を借りるなら、均質空間とは時間-空間の圧縮を可能にするものであり、それはレヴィ=ストロースの言うOC的なものでもある。布野はインターナショナル・スタイルの均質空間をこう述べた後で建築(空間)について触れながら近代建築の生産方式の特徴を述べる。

建築(空間)というのは、本来、具体的な場所に建って初めて建築でありうる。移動する飛行機や自動車なども建築(空間)である、すべての空間が建築(空間)である、という言い方もあるけれど、建築(空間)は特定の地面の上に建って初めて建築(空間)となる。建築は移築されることがあるけれど、場所が違えば空間は同じではない。一品生産が基本である。地域地域で利用できる材料を用いて、地域地域で固有の形態がつくられてきた。ところが、近代建築の場合、どこでも同じ質の空間を同じようにつくることができるというのが基本である。空間の生産システムが違うのである 。

工場でつくられた部品や建材を現場で組み立てるようなプレファブ住宅を例に、そのようなものをただ容器としてある空間とする。そして、このようなものの極致としての均質空間と「具体的な身体によって生きられることにおいて空間は意味を持つ 、」とされる生きられた空間を対置させる。この布野の図式は、OCに対するUCという図式ともかぶる。そしてそれは明らかに多木の言説を前提にしており、そのために前項では多木の「生きる」という言葉とUCの繋がりを探ってきた。布野は続けて生きられた空間についてこう述べる。

「生きられた空間」とは、具体的な生活空間、生の歴史が刻み込まれた空間、居心地よく身体化された空間、それぞれに意味づけられた空間、意識の内にイメージされた空間である 。

多木が「生きる」という内に個人的な記号化の過程とその解読による意味付けと自身の変容を含んだように、布野も同様のことを述べる。布野は、住み手による部屋の飾りつけを例にそのような暮らしの中での小さな空間実践とでも呼べるものを評価する。

どんなに醜悪であれ、そうした行為によって、空間は生きたものになる。そして、空間は生きられてこそ、それぞれにとって意味をもつのである。そうでなければ、住居はただの容器のままである 。

それぞれにとって意味のある装飾を飾るところにあるのは、前項で述べたような「自らがある尺度をつくる生活の仕方」であり、それは空間に対しての独自の意味づけのことである。布野が述べたような近代化の過程による均質空間へのささやかな抵抗としての生きられた空間は、再度言葉を借りて言うならば、こうした行為を通して「刹那的な資本主義」による均質性への抵抗にも繋がるものだ。そしてそれはUCにおける人-もの-場所との出会い方にヒントがあるはずであり、布野の言う小さな空間実践を可能にするものを探る必要がある。次節では布野が述べた空間の仮設性への言及からヒントを貰いながら、仮設的空間にUCにおける人-もの-場所の関係を適応してそれを考えていく。

1-1-4 UCの定義とアンダー・スペースモデル

前項までの考察から、レヴィ=ストロースの述べたUCを以下のように定義する。

「目の前の存在との出会いの中での個人的な記号化とその解読を含むが故に、独自の意味づけと自身の変容を帯びる一種の創造的行為」

また、UCを通した目の前の人-もの-場所の出会いが期待できる空間的性質をもつものを便宜上アンダー・スペースモデル(以下USM)とする。USMには、布野が言うような「生きられた空間」や多木の「生きる」ことが含意され、それは空間の均質性への抵抗を「自らがある尺度をつくる生活の仕方」をすることで成し遂げる。またそのために、USMはときに極めて個人的なもののもとにある。次節ではUCに依拠したUSMとは何かを考えていく。