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世間は広いようで狭い

今年最初の打ち合わせをした。いつものカフェではなく、シェアオフィス内の会議室だ。編集担当が最近見つけたのだと言う。近代的な複合ビルの高層階へ上がっていくと、高い天井と大きな窓が開放的な空間を演出している。室内には緑がふんだんに配置され、さらに木製のデッキやデスクなどが使われているので、無機質な印象など微塵も感じられない。明るい日差しが差し込む窓に目を移せば、澄んだ空気の向こうに東京の大パノラマを見渡すことができる。方角によっては富士山も見えるという。 

「どうです久勢さん、いい感じでしょ。」
編集担当の問いかけに、
「ああ、そうだね。ここから東京の綺麗な夜景も楽しめるだろうね。」
と、彼のもてなしに笑顔で応える。眼下に広がる活気に溢れた街並みは、インスピレーションの源泉になるに違いない。 

編集担当は年末年始を実家で過ごしてきたとのこと。曜日の並びが良かったこともあり、帰省してくる家族も例年より多く、久しく途絶えていた幼馴染にも会うことができたと言う。そんな多くの再会の中で面白い出来事があったと話す。

友人との食事でのこと。仕事の業界も生活圏も異なるので互いのネットワークに接点はないのだが、よくよく話を聞いてみると、どうやら同一人物と関わりがあるらしいことに気づいた。当然ながら、その人物はふたりが旧知の仲であることを知らない。近いうちにその人物にドッキリを仕掛けようと、ふたりの話はさらに盛り上がったそうだ。

世間は広いようでいて、意外と狭いものだ。
海外旅行中にクライアントとばったり出くわした、子どもの担任教諭が大学生時代のアルバイト仲間だった、そんなドラマのような話を聞くことがある。私は、取材で訪問した大学教授が幼馴染の父親だったという経験がある。「やっぱり君か、しばらくぶりだね」と教授に言われた私が、どんなに狼狽したのか言うまでもない。

「六次の隔たり」という仮説がある。特定の人物と知り合いたいとき、その人物を知っていそうな人を辿っていけば、6人目までに繋がることができる、というものである。仲介者のそれぞれが重複しない一定数以上の人脈を持っているなど、要求される条件があるが、共通の知り合いに繋がる初対面の人が、計算上、世界中のどこに行っても必ずいることになる。

日常の中で多くに人々と接する機会がある。たまたま同じエレベーターに乗った赤の他人、電話やメールでしかやり取りしてない取引先、アーティストやスポーツ選手といった有名人とも、数名の仲介者を経て必ず繋がっている。配偶者でさえ、まだ知らないもうひとつ別の繋がりがあるはずだ。

ヒトは社会的動物であるから、ある意味当然のことかも知れないが、やはり世間は広いようで狭い。

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