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ワルいのは誰だ?
冬の乾燥した空気は、星々を一層鮮やかに輝かせる。この季節の夜空に君臨するオリオン座のリゲルとベテルギウスは、数百光年の彼方からその存在を誇示し、見上げればすぐにその姿を捉えることができる。天体のロマンは眩く、そして味わい深いものだ。
しかし、日中の太陽光は弱く、彩度は落ちてしまう。冷たい風が吹きすさぶと、賑わう街は黒やグレーのモノトーンに染まり、寒さから逃れようとする人々は襟元を押さえ、足早に歩きすぎていく。
イソップ童話の「北風と太陽」が思い浮かぶ。北風は意地悪をせず、太陽はやわらかく暖かい陽光を送って欲しいと願うばかりだが、そもそも北風と太陽はなぜ旅人のコートを脱がせることにしたのだろうか。童話では、北風と太陽は「どちらが強いのか」という賭けをしていた。強さの判定に旅人を使ったのだ。つまり、北風と太陽はいたずらに旅人を翻弄していたというのが正解だ。
さらにシニカルな見方をすれば、太陽は自分の利益、つまり北風との賭けに勝つために旅人に暖かさを提供している。カーネギーは、「人心を動かすには太陽のように温かい気持ちで接するべきだ」と説いたが、太陽は賭けに勝つために旅人を思うがままに動かしているのであり、旅人を助けたいという温かな親切心によるものではない。
「悪人は、善人の顔をして近づいてくる」とはまさに的を射た格言だといえる。もちろん太陽はけっして悪者ではないが、はじめから悪人らしい振る舞いを見せる悪人はいない。ターゲットに警戒されてしまうからだ。
しかし、善と悪の境目はきわめて不明瞭なのだ。突き詰めればイデオロギーの違いであり、自分や自分の関係に利益があることが善で、逆に損益になることが悪だという結論に行き着く。したがって、立場や環境が変われば精神が根ざすイデオロギーはたちまち変容し、善と悪の概念は簡単に入れ替わってしまう。
小説やドラマでは、この善悪の入れ替わりがストーリーの奥深さを増す。ミステリー小説では犯人探しがストーリーの主軸だ。思いもしなかった登場人物が犯人だったりすると、悔しくもあり楽しくもある。はじめから疑わしい人物がやっぱり犯人だったり、不条理な急展開で犯人を仕立てるようなミステリーはお粗末極まりない。作り手は、月明かりの下で繊細な生糸を紡ぐかのように、合理的でありながら予定調和ではない繊細な展開を生み出さなければならず、バランスコントロールが難しい。
冬の寒さも悪いことばかりではない。重ね着ファッション、温かい料理、ツルなどの渡り鳥を見ることができるのも冬ならではの楽しみだ。そしてそれらはすべて美しい星の煌めきの下に咲き誇る。
創造の地平で物思いに耽りながら、温かいコーヒーを冷めないうちに味わうのも、冬だからこその楽しみのひとつだと思う。