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風景化する遺産、そのままでよいのか?

 私はふと腕時計を見た。ベルトにはいくつもの傷が刻まれており、そのひとつひとつが過ぎ去った時間を物語っている。今では古びたこの腕時計も、手に入れた当初はその輝きに心を躍らせたものだ。しかし、日々の生活の中で、時計は次第に私の風景の一部となり、いくつもの傷が増えていった。
 
一番大きな傷は、随分前にバルセロナに行ったときにつけてしまったものだ。どこでどのように傷がついたのか全く覚えていない。マーケットで物色しているときだったのか、観光名所での出来事だったのか、全く記憶にない。ただ、気がついたときにはもうそこに傷があった。特に高価でもなく、特別な思い入れがある訳でもないこの腕時計。海外での忙しい日々の中で、時計そのものに問題もなかったため、そのまま修理するタイミングを逸してしまった。そして、そのまま風景化していったのだ。
 
ある日、編集が私の腕時計をいぶかしげに見て、「そこの傷、どうしたの?」と尋ねてきた。その瞬間、私は時計の傷ひとつひとつに思い出が詰まっていることに気づいた。出先でのアクシデント、仕事での忙しい日々、家族との楽しい時間。それらがこの時計のベルトに刻まれているのだ。
 
修理を考えることもあったが、今ではこの傷が愛おしく、そして大切に感じる。傷があるからこそ、この時計は私だけの特別なものになっていったのだ。風景化した腕時計は、私の人生の良き語り部として、これからも時を刻み続けるのだろう。愛着とは単なる物への執着ではなく、その物に込められた思い出や経験が積み重なって生まれるものなのだと感じるのである。
 
しかし、編集に指摘されてから風景化の意味についてあらためて自問した。デスク上や家の中にも、風景化したものがいくつもあるのだろう。確かに風景化したものに囲まれた空間は居心地が良く、安心感を与えてくれる。しかし、それが本当に良いことなのだろうか。「愛着が湧いた」というのは、ただの言い訳に過ぎないのではないだろうか。
 
ダラダラとぬるま湯につかって硬直した組織のように、風景化には過去はあるが発展はない。「いつも変わらずそこにある」と固定されてしまうと、改善の機会を逸してしまう。前に進むためには、現状を打破していく必要があるのだ。愛着と風景化は決して同じではない。愛着があるからこそ、時には変化を恐れずに進む勇気も必要なのだと、私は強く感じるのである。

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