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松尾芭蕉「この道や…」
この道や 行く人なしに 秋の暮れ
今回ご紹介したいのは、松尾芭蕉の一句。
松尾芭蕉は江戸時代前期に活躍した俳諧師。蕉風と呼ばれる情緒、芸術性を高めた句風を確立し、現在は世界的にも知られていますし、多くのファンがいると思います。
「おくのほそ道」やそこで詠まれた句はもちろん有名ですが、一方で、その旅路、ルートなどまではなかなか知られてないのではないでしょうか。
有名な句の印象で、奥州平泉や最上川、そもそも「奥の細道」ですから東北のイメージが強いですが、大学の調査で大垣に行った際、改めて結びの地であることを知りました。
少し深堀するだけでおもしろいことがざくざくです。
言葉ってすごいな、と。美しいな、と再確認したのは、こうした端的な詩歌から。
改めて大人になってから俳諧や和歌、そして詩などといった世界に触れた時、少ない文字数、言葉がみせる広大な世界、背景、情感等を、おそらく生きてきた年月、経験とともに真に実感して読み解くことになり、その愉しみに惹かれるようになりました。
現在は、もともと専門でもある江戸時代後期の文化に引きずられて、小林一茶のほうに興味がうつっていますが(こちらも子供の時の印象では素朴な、純朴な良い意味で田舎らしい句、作家の印象でしたが、今ではその皮肉めいた、諦観ともいえる仄暗さや生きぬく人間臭さが好きです。詳しい方ぜひご教示ください。)、その話はまた別の機会に。
言葉って美しいんですよ。
さて、この句がつくられたのは、彼が亡くなる1か月前。いわゆる辞世の句の一つとも言われています。
芭蕉の状況、前後のやりとりなどから多くの方が解釈されていますし、私も一般的な解釈に異を唱えるつもりはありません。
この句の世界観を共有したいだけなんです。
ここで取り上げるものは全てその思いで取り上げています。
各々調べ、考えてほしい解釈ではありますが、一番の肝はこの「孤独」さというものが、どういうものかという点でしょう。
「秋の暮れ」が物寂しさ、悲哀、寂寥感、終焉といった印象を感じさせますが、浮かんでくる橙色に染まった空は、決して寂しいものだけではないとも思うのです。
実る秋、円熟、郷愁、別れ、諦観。
大団円のような華やかさではありませんが、素朴な温かさのある終わり。
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人間は最初から最後まで突き詰めれば孤独である、とは心情的に言いたくありませんが、そういう部分がないとはいえないでしょう。
孤独って何なんでしょうね。
別れも出会いがないと別れになりません。
孤独も最初から孤独でしかなかったら、気付くことができません。
「行く人なしに」とあると、不在であることに意識が行きがちですが、いないということはいた時もあったということ。
物寂しさの背景には、その経験の豊かさが隠れているように思います。
この句を引用した作品で自分が好きなものに、「風ノ旅ビト」があります。
こうなるとむしろ「風ノ旅ビト」のほうを紹介したかったのかもしれませんが、この句はこの解釈(世界観)が好きです。
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数十年生きてきて、人間の生き物としての物質的な命を老いとして実感するようになりました。
生きるってなんでしょうね。
しかも私みたいに、仕事に生きてしまって新しい家族をもたなかった人間にとっては。
でも、そういうことで感傷的になることもなくなってくるのです。
不思議なことに。
何かを成すことよりも、生きることが目的となって。
一人行く私の終わりは橙色に染まった空がみえたらいいなと思います。