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雲南日本商工会通信2022年1月号「編集後記」

 年初ゆえ、今後の中国経済の見通しを考えてみました。「たとえバカでも自分の頭で考える」がモットーなので、今年もあえて書く次第です。
 『会報2020年1月号』での私の見通しでは、中国経済に横たわる、いくつかの構造的リスクを挙げました。
 積みあがった債務が償還不履行となる可能性や、(国有企業に多い)従来型産業が構造転換できない可能性、不動産価格が下落する可能性、人民元が急落する可能性などです。特に「債務償還不履行の可能性」は深刻だと指摘しました。
 予測通り、恒大集団のデフォルトを代表とした不動産セクターの債務リスクが露呈しています。しかし米国の大胆な金融緩和政策が続いていることもあり、予測に反して人民元は急落どころか高値を維持できています。コロナ禍によって他国のファンダメンタルズが脆弱になったことから、相対的に中国経済は安定しているのでしょう。
 中国経済はたしかに、原料の高騰による物価高、不動産業界の不況、政策的圧力によるIT業界や教育業界の不況、それに伴う雇用や消費の悪化など、悪い要素が多々あります。
 しかしコロナ禍の打撃も相対的に少ない上に、十分に大きくなった中国経済には、まだまだ余力があります。そのため当面は、若干の経済減速に留まると予想されます。
 ただ中期的にはかなり危うくなると想像します。出生率が低迷する中で「中国の団塊の世代」がリタイア目前にあるという懸念はよく言われますが、それ以上に不安な要素は「共同富裕」の行き過ぎです。
 これまでを振り返ると、活力ある中国経済は「政治以外ならなんでも自由」な体制、つまり「中国式自由」(あるいは「中国的民主」)に依るところが大きかったと感じます。しかし「共同富裕」の行き過ぎが、このような自由が生んだ活力を大きく毀損しかねないことを懸念するのです。
 親の金で暮らして家で寝そべる若者が政治的に批判されています。子供を作らない夫婦に批判が集まっています。受験戦争と経済格差を助長するとして塾通いが禁止になりました。西洋蔑視の流れから、クリスマスを祝うのも批判され、英語不要論も高まっています。女装タレントはかなり前に出演禁止になったし、下品な歌詞のヒップホップも、韓流スターのような“軟弱”な髪型も、政治圧力で自粛させられました。
 自由の制限が、政治だけでなく趣味嗜好やライフスタイルにまで及ぶなら、不満はマグマのように蓄積するはずです。しかしデジタル監視社会は、デモを決して許しません。その代わりに活気が薄れ、意欲も削がれ、「社会の衰退」という形での「反乱」が起きることでしょう。
 そうなる前に政治的圧力が緩和されることは当然あり得ます。しかし私は、その可能性は少ないと予想します。なぜなら、度重なる幸運(=意図せずに良い状況になること)は次回の不運を準備するものだからです。
 日本を例にとると、1945年の敗戦はそれまでの連戦連勝という幸運が伏線となっていました。失われた30年も、それまでの度重なる幸運があればこそです。幸運が度重なると、「幸運が続くこと」がデフォルトになってしまい、現状に対する正確な認識を失わせます。すると、なかば必然的に不運が生じるのです。
 視点を中国に戻すと、IT産業の隆盛は、サービスが悪い、偽札が多い、偽物が多いといったマイナス環境が奏功しました(真逆の日本はIT化が遅れています)。コロナの発生は、極端な監視社会の構築を正当化する口実を与えました。香港の民主化運動は、コロナ禍をきっかけに潰れました。未来を左右するAI産業も、人口が多く私権を制限する国に有利です。このような度重なる幸運は、実態以上の評価を自らに与えます。
 歴史を振り返れば、神が一方に味方をし続けるケースはありません。にもかかわらず、幸運が続いている限り、そのような真理は容易に蹴飛ばされます。そして人々を非合理な行動に駆り立てます。幸運は強行論者にとっては自らの論拠となり、反対論者にとっては再考を促す材料となります。その果てに待つのは「共同富裕」の先鋭化であり、「戦狼外交」の積極化ではないかと、私は危惧するのです。
 もちろん、そうならないことを切に願います。

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