見出し画像

喫茶店と散歩、読書その他 立川あたり

見たい映画が近所ではやっていなかったので、立川まで足を伸ばした。

立川に来るのは、一年ちょっとぶりだ。そのときは、高校時代の恩師の通夜で来た。
冷たい雪の降る夜だった。にも関わらず、大勢のひとが参列していた。恩師は大酒飲みで、亡くなった日も飲んだ帰りで、家に帰り着く手前で倒れているところを、発見されたそうだ。
考え方によるだろうが、ぼくは悪くない最期と思っている。死を悼むひとは多くても、ひと(生命)はひとりで逝くしかない。
それまでは、生きる。生きていれば、腹も減る。


チケットを発券して、まずは腹ごしらえに麻婆豆腐を食べた。
この店ができた頃は、まだ花椒の効いた麻婆豆腐を食べさせる店が少なかったので、たまにここまで食べに来た。
久しぶりの麻婆豆腐は、以前よりやさしく感じた。ぼくの舌が、花椒に慣れてしまったからだろう。


生きていれば、なにかが少しずつ変わっていく。変わるのは世界であり、同時に自分である。なのに、自分という意識の主体を抱え続ける、動的平衡の不思議。
食べ終えても時間があったので、書店に寄ったら、吉田篤弘の吉田音名義の文庫本を見つけた。タイトルに縁を感じて購入し、隣接する「本棚珈琲」に入った。
この日、ぼくがバッグに忍ばせていた本は、以前に久我山の喫茶店で読んだ「犬」というアンソロジーの姉妹編「猫」である。
購入した本は、「夜に猫が身をひそめるところ」だ。


猫つながりであるだけでなく、「猫」はクラフト・エヴィング商會プレゼンツとなっている。クラフト・エヴィング商會とは、吉田篤弘が文章以外(装丁など)も手がけたときに使う名称だ。つまり、二冊はともに吉田篤弘が別名で出した本ということになる。
まあ、ぼくは吉田篤弘の本をかなり読んでいるので、すごい偶然というより、やや必然ともいえることではある。
それより、なぜ別名を使っているかは、彼が小説家になるまでの物語に直結する。
華やかなデビューを飾るひともいるが、自分の目標に向かって一歩ずつ前進してその座を掴むひともいる。どちらもひと握りだが。
亡くなった恩師は古文が専門で、なかでも松尾芭蕉を研究していた。退職後、市民講座のようなところで芭蕉の講義を持ち、熱心な受講者を何人も得ていたらしい。
最期だけでなく、悪くない人生だったと信じたい。頭をめぐる思いに活字をうまく追えずにいるうち、上映時間が近づいたので、映画館に向かった。ちなみに、八割がた席が埋まっていた「本棚珈琲」で、読書をしていたのは、ぼく含めて3人だけだった。さみしい。


見たのは「ザ・ルーム・ネクスト・ドア」。
尊厳死を選んだ女性と友人作家の、再会から永遠の別れまでを描いた映画だ。
こういう映画が、心に沁みる年齢にぼくもなっている。一度、死にかけもした。たまたま運よく、生きている。憎まれっ子世に憚る。意地悪爺さんになることを目指していたので、本望だ。

この日はあまり歩きはしなかったが、しっかりと散歩をした気分になった。たぶん、脳みそが映画世界を彷徨い、迷子になりかけたのだろう。知恵熱が出る前に、家路を辿ろう。


いいなと思ったら応援しよう!