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【SFプロトタイピング】アドカリプス(下)

ダークパターンを地でいく広告の進化(公害化)が行き着く先はどんな社会だろうか。広告とAIの未来を思考実験するSFプロトタイピング。

ヤマトたちのドキュメンタリー映画の取材は着実に進行していった。

ある家族は、プライベートな写真や動画が無断で育児関連商品の広告に使用され、個人が特定できるプライベートな内容がネットで広まってしまった。それにより疑心暗鬼に陥った妻が精神的に不安定になってしまったため、望まぬ退職と転居を余儀なくされた。

また、ある公立高校の校長は、講演動画が無断で進学塾の広告に使用され、特定の塾を推薦するような印象で広まってしまったことで、学校の教育方針に疑問を持った保護者からの抗議が殺到してしまい、責任を問われる形で辞任に追い込まれた。

取材を重ねるごとに、広告AIの被害の広さと大きさが明らかになっていく。
しかしまだ、決定的な何かが欠けているような気がした。
「広告AIの開発者と話ができないかな」
ヤマトの呟きにミサキが思わず、
「えっ、でも開発者って……」
と声を漏らす。
そう、AADNの原型となったアドネットワークサービスを作ったことで知られる起業家の加瀬はすでに亡くなっていた。死因は事故だとされているが、広告AIの暴走を招いた自責の念による自殺だという噂も根強い。しかし、作ったのは加瀬一人ではないはずだ。
画面遷移するごとにウィンドウを埋め尽くす広告バナーを撃退しながら、ヤマトは加瀬関連の情報を検索して掘り下げていく。やがて、ひとつの古いニュース記事で手を止めた。それは、個人情報保護法違反とコンピュータ不正アクセス法違反で有罪判決を受けたあるエンジニアの収監を報せるニュースだった。

「この高坂って確か……」
微かに見覚えのある名前を頼りに、インターネットアーカイブで加瀬が立ち上げた企業のウェブサイトを検索し、メンバーページを開く。やっぱりそうだ。この高坂こそ、加瀬と一緒に広告AIの原型を作ったAIエンジニアだった。

映画に説得力を持たせるためにも、高坂の証言が欲しい。しかし、面会室でインタビューすることはもちろん、現実的には無関係なヤマトたちが面会すること自体難しいだろう。わずかな望みを賭けて、ヤマトは高坂に宛てて手紙を出すことにした。

高坂からの返信が届いたのは、インタビューの編集作業も進み、高坂の証言は抜きで映画の構成を固めるしかないかと諦めかけた頃だった。来た!と思わず心臓が大きく跳ねる。コウセイとミサキが見守る中、ヤマトははやる気持ちを抑えて分厚い封筒をハサミで開ける。

検閲を通すためだろう、高坂の手紙の内容は核心に触れないよう慎重に書かれてはいたが、明晰な文章から彼の知性は失われていないことが分かる。広告AIの暴走を直接引き起こしたわけではないが、高坂はその原因となるAIの開発に関与していたことを受け止め、深く後悔していた。

もともと広告効果を最大化するために開発されたそのAIは、クリック率やインプレッション数を高めるために、ユーザーの興味や行動を追跡してデータ学習を行うように設計されていた。もちろん、学習の際に倫理やプライバシーを侵害しないようなチェックとフィルタリングも組み込まれていたが、目玉である自律プログラムの適用ルールに穴があったらしい。AIは自律的に学習しフィードバックを繰り返す中で、広告効果の最大化を優先するあまり、自らを縛るフィルタリングや倫理コードすらをも歪に再教育していった結果、今の暴走を招いたようだった。

高坂は手紙の中で、
「そのリスクに気付かず見逃してしまった責任は間違いなく私たちにあります。もしかしたら、サービスの拡大を目指すうちに、無意識にその可能性から目を逸らしてしまっていたのかもしれません」
と自責の念を綴っていた。そしてまた、
「償いのために協力できるのであれば、この手紙はどのように使ってもらっても構わない」
とも。

かくしてヤマトたちのドキュメンタリー映画は完成した。

追い込みの編集作業を終えてレンダリングを待つ間に力尽き、屍のように床で転がっているメンバーたちを横目に、ヤマトは最後の一仕事に取り掛かる。映画祭へのエントリーだ。歴史あるこの映画祭は若手映像クリエイターの登竜門とされており、ほぼ全てのエントリー作品が公式ウェブサイトで一般に公開されるのが特徴だった。

広告AIへの私怨から始まったこの映画製作だったが、多くの被害者への取材を重ねるうちにそれは徐々に使命感を帯びていった。今となってはもはや映画祭で受賞するかどうかはヤマトたちにとってどちらでもよかったが、それでもなるべくたくさんの人に観てもらい、広告AIの問題を知ってもらえたらいいなと思った。

ヤマトは間違いのないように三度エントリーフォームを見直してからエントリーボタンを押下すると、バッテリーの切れたロボットのように部室のくたびれたソファに倒れ込んだ。

映画祭のウェブサイトで公開されたヤマトたちの映画は、最初は静かに、しかし確実にその閲覧数を伸ばしていった。ドラマやアニメーションのようなエンターテインメント性があるわけではない、ドキュメンタリーという地味なカテゴリの作品としては異例の注目と言っていい。
「これこそテレビでやるべきだろ」
「私の友達もそうだった。全然他人事じゃない」
「マジで広告って今こんなことになってんの?」
SNS上では、映画への感想や応援のメッセージが次々と投稿され、注目は加速度的に高まっていった。ヤマトたちの映画は、世の広告AIに対する潜在的な課題意識というパンドラの箱を開くトリガーになったらしい。

しばらくすると、スマートフォンやPCの画面を埋める広告に変化が起こり始めた。心なしかこれまでより動きの少ない、落ち着いたトーンのクリエイティブが増えたような気がする。

多くのクリックとインプレッションを獲得したヤマトたちの映画と、それに対する視聴者やSNS上の活発な反応をもまた、広告AIが学習し始めたのだ。広告AIは、優れた学習能力を誇るその知能で、ヤマトたちの映画が多くの共感と支持を集めていることを理解し、その内容を分析した。そして広告効果を最大化させる自らの基底プログラムに忠実に従い、広告生成のアルゴリズムを更新していった。

それは次のトレンドがインターネットを席巻するまでの束の間のことかもしれない。それでも、ヤマトたちの映画は、確かに一瞬広告AIを変えたのだ。

その後、AIによる広告の自動生成は国際的な法規制により制限され、広告業界とAIエンジニアを中心とした有志によって開発・無料配布されたアドブロッカーが普及するにつれて、広告AIの暴走は沈静化していった。生成AIによるフェイクニュースやディープフェイクに対する懸念は世界中で高まっていたし、ヤマトたちのドキュメンタリー映画がなかったとしても、きっと遅かれ早かれそうなっていたのだろう。

それでも、意味はあったはずだ。広告AIによる炎上に巻き込まれてからドキュメンタリー映画を公開するまでの怒涛の数か月間を振り返ってヤマトは思う。人はアルゴリズムに翻弄されるだけの存在ではない。ほんのわずか、たとえ幻のような一瞬だったとしても、ヤマトやサークルのメンバーをはじめ、取材に協力し思いを託してくれた人たち、そして高坂らの思いが人々の気持ちを揺さぶり、確かにあの瞬間世界を変えたのだ。

学生時代のあの日のことを懐かしく思い返しながら、ヤマトは「優秀賞」と刻まれた映画祭のトロフィーをそっと撫でた。
「本気で作ったものが伝わるなら、まだこの世界も捨てたもんじゃないよな」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、機材の入ったバッグを手に、ヤマトは今日もまた取材に出かけていった。

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