女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 4話 朽木 中編

 いつの間にか激しくなっていた雨の音を聞きながら、菊花ジファ様の口から語られる真実に耳を傾けた。
「母は玉英イイン鈴香リンシャンと同じように王宮で働く使用人でしたが、父上……王陛下のお目に留まって、側女として召し上げようとされました。ですが、高貴な出自の王妃はそれを認めませんでした」
 平民が王族に召し上げられるという話は聞かなくはない。だが王妃がそれに反意を示したとなると話は別ということだろうか。
「母が側女となることはかないませんでしたが……すでにその身には子を宿していたのです。王妃は母を宮廷から追放しようとしました。しかし、今度は王陛下が母を守ろうとなさいました。母は身寄りのない方だったそうで……お腹にいるのが王の子であることを隠し、宮廷で住まわせられるよう取り計らってくださったそうです。ですが……出産の際、母は、天に召されてしまいました」
 菊花様はそこまで話すと、一度口を閉じて小さく溜息をついた。
「そうしてわたしは産まれたのです。産まれながらにして独りとなったわたしを、王陛下は憐れんでくださいました。亡き母ではなく王妃の子として、半ば強引に、わたしを王女とすることになさったのです」
 だからか。王妃の反対により王族と認めるはずのなかった子を、王陛下が独断で王女としたのであれば……菊花様の本当の母君が平民であればなおのこと、王妃や他の王族から疎まれるのも無理はないのかもしれない。するとやはり……思ったことをつい口走ってしまう。
「……そもそもは陛下の過ちが原因じゃないか……」
 しまったと思い口を噤んだ。まるで菊花様の存在そのものを否定するような発言だ。しかし菊花様は気にした様子もなく微笑んだまま口を開く。
「ええ、わたしもそう思っています。でも仕方がありません。これは運命なのですから」
「あの、違います、そのようなつもりでは、けっして……!」
「いいのですよ。父上には感謝しています。父上が手を尽くしてくださらなければ、わたしは今この地にはいなかったでしょう。ですからわたしは王妃や姉上の言うことはすべて受け入れますし、彼女たちの望み通り振舞います。それがせめてもの恩返しだと信じているからです」
 菊花様の表情は優しかったが、それは諦めているような顔に見えてならなかった。そんな彼女を見ていると胸が苦しくなってしまいそうになる。菊花様のおかれてきた状況を理解し、ますますかける言葉を失ってしまう。そしてこれから彼女を助けるにはどうしたらよいのか……それがわからない自分に悔しさが込み上げてくるのだった。

 雨音の中、沈黙が流れた。何か言わなくてはと思うが、なにも言葉が出てこない。どうすれば菊花様を救えるのだろうか。私が悩んでいると、突然菊花様が声を上げた。
「あ! そうです」
 明るい声とともに手をたたいて立ち上がるものだから、何事かと思った。菊花様は部屋の隅に置かれた箪笥を開けながら言う。
「お母様が、わたしに残してくれたものがあるんです」
 私は菊花様の背中を見つめながら、彼女が母の形見を取り出してくるのを待った。引き出しの奥から取り出したものは小さな木箱。それを大事そうに両手で持ちながらこちらにくる。そして机の上で箱の蓋は持ち上げられた。
「これは……髪飾り」
 それは木彫りの髪留めで、蕾や花を象ったものだ。手のひらくらいの大きさで、湾曲した板の形をしていて、それに髪を留める棒が長さ方向に刺さる形で二つの穴に収まっている。彫刻はその板の表面に施されていた。木を彫りだしたままのようなあたたかみのある造形だ。専門の道具によっての正確な彫りではないが、花弁一つ一つが丁寧に彫られていて、かなり手がかかっていることがわかる。その花は、菊を模していた。
「お母様が、生前、自身の手で作ってくれたものです」
「母君が、その手で……」
 菊花様は目を細めて言った。その表情はとても穏やかで優しいものだった。母君は出産時に亡くなったため、菊花様には母君との思い出が無いのだが、その髪留めには彫刻という形で母の愛情が刻み込められていると菊花様は感じているのだろう。なんとも素晴らしい贈り物ではないか。私は目頭が熱くなるのを感じた。本当に美しい品だ。
「寂しさが和らぐ気がするんです。お母様がそばにいるような気がして」
「この品が、菊花様の心の支えなのですね」
「はい。ですから、わたしは大丈夫なのですよ」
 そう言って彼女は微笑んだ。その笑みは儚げで、少し寂しそうにも見えた。

 この髪留めが、菊花様にとっての救いだ。なら、こうして仕舞っておくなんて勿体ないのでは。そう、私はひらめいたのだ。これをもっと活用できないものか? そうすれば菊花様も喜んでくれるのではないだろうか。そんな期待を込めて口を開いた。
「でしたら、明日からそれを着けてさしあげましょうか?」
「え……?」
 菊花様は目を見開いて顔を上げた。その視線は中空を漂っている。
「どうかなさいました?」
「いえ、その……」
 なんだか戸惑っているようだ。身に着けたくないのだろうか? いや、そんなことは無いはず。
「もしかして、今の髪形には合わないとお思いですか?」
「え? あ、ええと……」
「そうですね、お団子の髪形では着けること自体が難しいですから、明日も鈴香を呼んで協力してもらいましょう」
「え、ええ……はい……」
 よかった、納得してくれたみたいだ。私は安堵した。
 菊花様を救う手立てがようやく見つかった気がした。はやく明日にならないかというほど、私の心は踊っていた。外で雨脚が強まっているのとは裏腹に。


「いいの? 豊蕾フェンレイ。お団子の髪型にしてあげなくて。あんなに練習したのに」
 翌朝、鈴香と共に菊花様の髪を結おうというとき、鈴香からそんなことを言われた。それはそうだ。菊花様と言えばコレというお団子の髪形に整えられるようになるのが、新任である私の第一目標であると言っても過言ではなかったのだ。
「悪いな、鈴香。せっかく教えてくれていたのに」
「あたしはいいけれど……でも、なんで急に、おろした髪形に?」
 鈴香はそう言って菊花様の方へちらりと視線を向けた。菊花様が肩まで届く栗色の髪を揺らしながら微笑みで返すと、答えないのを察したのか鈴香は再び私の方を向いた。そう、これは私の発案だからな。
「この髪留めを菊花様に身に着けてもらいたいんだ」
 私は菊花様から預かっていた木箱の蓋を外す。昨日と同様、中には木彫りの髪留めが収まっている。
「わぁ、すごく丁寧で綺麗な細工ね!」
「だろ?」
「それに菊の花じゃない! 菊花様にピッタリじゃないですか」
「ふふ、ありがとうございます」
 目を輝かせて髪留めを褒める鈴香に、菊花様は口に手を添えて嬉しそうに笑った。
「これ手作りよね。誰が作ったんだろう? 豊蕾が?」
「え? いや……」
「でも、それにしてはいくらか月日が経っていそうね」
 髪留めをまじまじと見ながら推し量っている鈴香に、私は答えに窮する。まさか、菊花様の本当の母君が彫ったものとは言えないからな。菊花様の母が王妃ではないというのは他言無用だ。
「……秘密だ」
 結局、はぐらかすことにした。鈴香は不思議そうに首を傾げたが、深く追及してくることはなかった。助かった。
「まあいいわ。そんなことより、あたしも菊花様がこれを身に付けているところを見たいもの。なるほどね、たしかに髪留めをつけるなら、いつものお団子よりもおろした方が良さそうだわ」
「ああ。だからやり方を教えてくれ、鈴香」
 私は鏡の前に椅子を置き、そこに菊花様を座らせる。彼女の後ろに立ち、櫛をそっと手に取った。滑らかな絹糸のように艶めく栗色の髪に、思わず見惚れてしまう。しかし今はそんな場合じゃない。私は意を決して菊花様の髪に触れた。

 そうして、私は鈴香からの助言を受けながら、菊花様の髪を整えた。と言っても、髪をおろした形にほとんど手をつけない、自然な感じだ。違うのは、栗色の髪の後頭部で、かの木彫りの髪留めが素朴ながら存在感を放っているところだ。横に刺した棒と板は彼女の左右の髪を後ろに流し、後ろ髪の上に一段高い場所を作っていて、それがほんのりおしゃれに見えた。やわらかで温かみのある見た目の髪留めと、髪を逆立てないことによる少女らしさが合わさって、とても可愛らしかった。ずっと思っていたのだ。髪をおろした菊花様は可憐であると。
「ホントはもうちょっと編んだりとかしたいけど、それはこれからかな」
「そうか……。菊花様、いかがですか?」
 鈴香の言葉を聞きつつ、私は椅子に腰掛けた菊花様に問いかけた。彼女はにこりと笑って頷いた。
「はい、とても気に入りました。素敵です」
 そう言われ、嬉しさに加えて何だかむずがゆさも感じた。人に何かをしてあげる喜びというのはこのことなのかもしれない。

「あ、あたしもう行かなきゃ! ここ最近、仕事に行くのが遅くなっちゃって」
 鈴香は思い出したように立ち上がった。彼女は玉英と同じく洗濯などの仕事をする使用人で、雨の日といえども仕事はあるらしい。道具を手早くまとめ終えると、私たちの方を向いて言う。
「じゃあね、菊花様、豊蕾」
「はい、いつもありがとうございます」
「毎日悪いな」
 私と菊花様が礼を言うと、鈴香は笑顔で手を振りながら扉を開き飛び出していった……と思ったが、すぐに顔を出してくる。
「豊蕾、髪留め、大事にしてね! 何なら今日のところは別のものに……」
 すると扉のだいぶ向こうの方から女の声が聞こえた。鈴香を呼んでいるようだ。
「はーい、もう行きますー!」
 鈴香は返事をしてから今度こそ扉を閉め、駆ける足音を廊下に響かせた。騒がしいヤツだ。結局何と言いかけたのかわからずじまいだ。
「では、私たちも少ししたら食堂へ行きましょうか」
「はい……。あの、豊蕾……」
「なんでしょうか?」
「その……ええと……」
 菊花様は俯いてもじもじしている。どうしたのだろう。それにしても、この髪型のお姿は可愛らしい。そう思いながら見ていると、彼女はこちらを見上げてから、再度俯いた。
「いえ、何でもありません……」
 そう言いながら横を向く彼女。頭の後ろの髪留めが見える。うん、やはり良い出来だ。この可憐なお姿を他の者たちにも見せてやりたい。朝食に出かける時間が待ち遠しかった。


 ついに食堂へと向かう時が来た。菊花様と廊下を歩く。今日も引き続き、雨が降り続けていた。湿気を感じ、少し肌寒い。その水けに負けぬよう、菊花様の髪には香油を抜かりなく塗っている。おかげで、おろした髪はさらさらと風になびき、美しい光沢を放っていた。髪留めは、改めて見ると、とても温かみを感じるものだった。その木の質感自体が、なんというか、柔らかみがあると言えばいいだろうか。菊花様は、笑顔をたたえ……?
「菊花様?」
「なんでしょうか?」
「……いえ」
 一瞬違和感を覚えたが……気のせいか?

 突き当りを曲がると、また会った。一人の護衛を従えた、蒼い服の王女、蓮玉イインだ。昨日、彼女には冷たくあしらわれたが、今回はどうだろうか。見よ、髪をおろした菊花様の可憐な姿を。そして、温もりに満ちた髪留めを。きっと彼女も、昨日の私と同じ感動を覚えることだろう。
「ごきげんよう、姉上」
 菊花様が、昨日と同じように蓮玉に挨拶をする。蓮玉の鋭い目は、やはりよそへ向いていた。いつものように、無視をするのだろうか。
 しかし予想に反し、蓮玉は足を止めたのだ。その時、手に汗を感じた。さっきまでは、菊花様のお姿に是非とも反応して欲しいと願っていた。だが、先日と同じようにまた菊花様の髪をけなされたら、菊花様の心が傷つけられてしまうと思い、不安になった。今、蓮玉が険しい表情をしているのを見ると、悪い予感しかしなかった。
「その髪は何?」
「今日は、豊蕾に髪をおろしていただけました」
「豊蕾? ああ、この女ね」
 そう言って私を見る目つきは、相変わらず冷たいものでしかなかった。私は軽く会釈をしたが、すぐに顔を背けられてしまった。
「この女はこんな簡単な髪しかできないの? 侍女でない者にやらせるとろくなことにならないわね」
 どうやら私は馬鹿にされているらしかった。確かに私は侍女ではないし、今日は菊花様の髪型を編み込みのない簡単なものにしたが……そこまで言わなくてもいいだろうに。さすがにムッとする。何か言い返してやろうかと思ったが、菊花様は穏やかな表情で言った。
「わたしは、好きですよ」
「また、それ? どうしていつもそうなの? そうやって自分をごまかそうとしているんでしょう」
 蓮玉は、私を庇う菊花様を追い詰めるかのように言葉を浴びせていく。何故だ? どうしていつもそうなんだ。菊花様が王妃の子ではないからって、どうしてそんな言い方をするんだ。
「それに、このみすぼらしい髪留めはなによ」
 その言葉に、頭に血が上った。菊花様の大事な髪留めを侮辱するなんて許せない。たかが高い物好きが、ろくに見ずに適当なことを言うなと思い、握った拳が震えた。これ以上馬鹿にされるようなら、一声放ってやろう。そう思っていた。
「あら、でも……」
 菊花様の後ろに回った蓮玉が髪留めに手を伸ばす。何をするつもりなんだ? そう思ったとき、菊花様の後ろ姿が急にこわばり、びくりと震えた。
「あ……!」
 菊花様が声を発したのとほぼ同時に、蓮玉の指がその髪留めに触れる。

 小さな弾ける音。髪留めが、菊花様の髪からするりと下る。それは廊下の絨毯の上に落ち、木の折れる破裂音がした。
 髪留めが二つに割れた。
 髪留めの片側が棒から外れ、私の膝の高さまで跳ね上がった後、床に落ちる。乾いた音が立った。
 私の目の前で、菊花様の産みの母の形見であり、菊花様の心の支えが、壊れた。
 頭が真っ白になった。

 菊花様がこちらに振り返る。下を向き、その壊れた髪留めを呆然と見つめている。その顔は固く、強張っていた。
「ずいぶん弱っていたようじゃない。すこし撫でただけで壊れてしまうなんて」
 蓮玉が俯く菊花様にそう言い放つと、菊花様の唇が震え、そしてしゃがみ込んでしまった。髪留めを拾う菊花様から、かすかに嗚咽が漏れている気がした。その声が痛い。あまりに悲痛なその様子に、胸が締め付けられる。
「菊花?」
「……おい!」
 平然とした振る舞いの蓮玉に、私は怒りを覚えた。思わず声を上げてしまうほどに。気づけば蓮玉の胸倉を掴んでいた。
「な、何!?」
 彼女の護衛の男が間に入ってくる。太い腕で肩を押され、彼女から離された。
「お前、何をしたのかわかっているのか!」
「何って、ただ勝手にその髪留めが落ちただけじゃない」
 私の剣幕にも全く動じない様子で答える彼女に腹が立つ。こいつ、自分が悪いと思っていないのか。
「そんなわけあるか! お前のせいで、菊花様の母君の形見が……何よりも大切なものが……!」
「……はぁ!?」
 今度は怒ったように眉を寄せたかと思うと、彼女は私に食ってかかる勢いで口を開いた。
「あんた、それ本当なの!?」
 その問いかけと同時に、菊花様が立ち上がると、突然、駆け出した。自室のある方へ向かって。
「菊花様!」
 私も慌てて追いかけようと身を返したが、後ろから蓮玉の声がかかったので立ち止まった。
「ちょっと! なんで、そんな大切なものを身に着けさせるのよ! あんな朽ちかけた木を、こんな雨の日に。 バカじゃないの!?」
 その言葉を私は背中から受け、絶句した。思い知らされたからだ。全く否定できない。

 どうして気が付かなかったのだろう。菊花様にとってどれほど大切な品であるか、わかっていたはずなのに。それを自分の都合ばかり考えて身に着けさせたのだ。彫っただけの古い木が、湿気の多い日に耐えられるはずがなかったというのに。
 これは自分のせいだと強く思った瞬間、足が鉛のように重くなった。追いかける気力が失せてしまった。それでもなんとか足を前に出す。頭の中がめちゃくちゃだった。どうすればいいのかわからないまま、足を引きずることしかできなかった。

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