女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 9話 黒影
大広間内を駆けるその黒影は、激しい足音を立てながら、壁際に座る宴の参加者の目の前を疾風のごとく通り過ぎた。一瞬の間に中央の空間にいる私と菊花様の横を通り過ぎ、私たちに空気流を浴びせると、そのまま王の座す玉座に向かっていった。途中に立つ兵士の槍が弾かれ、金属音を響かせる。兵士は飛ばされ床に倒れた。そのまま黒影は王の元へ到達してしまった。
あっという間だった。その者は玉座の裏に回り、王の右腕を左手で掴み後ろ手にさせ、短刀を首筋に当てる。
黒影の駆け抜ける姿を見たときから、私はそれが誰なのか確信していた。今の早駆け、できる者は一人しかいない。だが、何故? 皆もその姿を見て驚きの声を上げた。
「……剛玄」
王が呟く。
黒い装束に真っ白な髪、黒ずんだ肌、そして鋭い眼光を持つその者は、まごうことなく、武をもって王家に忠誠を尽くす、我ら武家集団の虞家の長であり、王陛下の旧知の仲で、建国前から王や王妃と苦楽を共にしてきたという、剛玄その人であった。
信じられない光景だった。二人は互いに名前で呼び合い、信頼し合っているように見えたし、王も長のことをよく話していたものだ。しかし、長は王の呼びかけにも答えず、刃を友であるはずの王に突き付けている。
「貴様! 陛下を放せ!」
兵士が叫ぶ。だが長は黙ったままだ。口数の少ない長はいつも行動で示す。今も兵に対し、王の首に短刀の刃を横から押し付けて見せることで、静止を呼びかけている。
兵たちは槍と弓矢を長に向け、王子王女らは口々にその父の身を案じる声を投げかけるも、その危機に誰も近づけずにいた。
「父上……!」
目の前の菊花様の表情が一変する。血の気が引いていき青ざめていく。
「長……なぜ……?」
私はただ菊花様の手を強く握ることしかできなかった。
「剛玄……お前……なんということを……!」
王妃の怒気をはらんだ声に、長は初めて口を開いた。
「百麗……手出しをすればお前とて斬る」
低く唸るような声だ。いつものような端的でキレのある話し方とは程遠いものだった。
「なんだと……!」
「百麗、やめい」
怒りを表す王妃を王は制した。その状況に反して、落ち着き払っていた。
「いつかやられるとは思っておったが……なんという時にやってくれるかのう。いや、むしろこれがお前らしいと言うべきか、剛玄」
長は再び黙った。何を思ったのか、王は苦笑した後、ため息をついた。
王はなぜあんなに落ち着いているんだ? 長は、とても冗談とは言えない……殺気を醸し出しているというのに。
「外の兵は……突破したのじゃな」
「ああ」
短く答えた長に、人々が一斉にどよめく。まさか。
開いた扉の方を見ると、見覚えのある男ども……帯刀した虞家の武人たちが十人程入ってきていた。窓の方にも人影がちらつく。彼らは立ち尽くしているが……その男の服には、赤い飛沫が散っていた。返り血だ。長の率いる虞家の武人が、部屋の外の兵を斬り、強行突破してここまで来たのだということを理解する。
そしてその中にある人物を見つける。背が高い短髪の、あいつ……。
「睿霤……!」
奴も長に与して謀反を起こしたのか!? 私の声が聞こえないのか、私を無視しているのか、奴は何食わぬ顔でよそを見ていた。私がここにいるのはわかっているだろうに。
「しかし、さっさと斬らんのはお前らしくないのう。別に何の要求もないじゃろうに」
「可笑しな話が聞こえたが故」
相手を煽り立てかねない王の言葉に心臓が縮み上がるが、一方の長はその声色にいつものキレを取り戻していた。
「ほう?」
「成龍よ。お前はよその国へ媚びを売り、この地をも売り渡そうというのか」
「……そう聞こえたかの?」
王が眉をしかめるのが見えた。その様子を見て長は語りだす。
「国は大いなる力をもって治められねばならぬもの。民は力ある者の指し示し導くままに従う。抗う者には死を与えればよい」
初めて聞く長の長台詞は、まるで詩を詠むかのような抑揚があり、凄みがあった。
「国を建てるときにはそのやり方が必要じゃった。お主……剛玄には苦労をかけたな……」
懐かしむように語る王の表情は穏やかだった。
「我はそれが勤めと心得ていた。お前の兵ではなく、独り立ちした組織として……虞家として、世俗より裁きを受けるならば我がすべてを背負う覚悟を持ち、敵を屠ってきた」
虞家が王直属の兵とはならない理由を初めて聞いた。だが、それなら何故、今このような事態に陥っているのだろうか。
「じゃが、いまやお主らは民たちから認められ、こんにちがある……」
「ならば、なぜ方方への打ち入りの手を弛めるのだ!!」
長は大声で叫んだ。暗殺のときの号令のようにはっきりとした声に、兵たちは一斉に警戒し、周囲の者たちはすくみあがった。だが長の手は止まったままだ。
菊花様が張りつめた空気に耐えられず震えているので、菊花様を守るように抱き寄せると、彼女は私に身を預けてくれた。
「豊蕾……」
私を呼ぶ声もまた震えている。
「大丈夫、私がいます」
「はい……」
安心させるよう、耳元で囁く。菊花様は私の袖をぎゅっと掴んだ。
菊花様を守らなければ。
今のところ、入口に集まっている虞家の武人たちに動きはないが、多くの男は抜き身の刀を携えたまま、私たちを睨みつけている。かつて行動を共にしたその面々を見渡すと、睿霤を含め、精鋭を揃えてきたのがわかる。彼ら一人一人が強者だ。彼らの刀は、鎧で身を固める兵に対抗するためか、装備を断ち切れる長大な刀身を有していた。
私が今持つ儀礼用の直剣は役に立たない。我が愛刀は壁際の使用人に預けたままだ。菊花様の体を引きつつ、周囲の様子を伺いながら、小走りで壁際へ近付く。その間も鋭い視線が注がれ続けていた。
壁際につくと、菊花様が大きく息をついた。ずっと顔色が悪い。
「刀を返してくれ」
不安そうに立ちすくむ女性使用人に声をかける。
「は、はい、ただいま……!」
慌てて壁に掛けられたままの自分の剣を取りに行く彼女を見ながら、菊花様を抱きしめる腕に力を込めた。菊花様の震えが伝わってくる。
「菊花様……」
どうして、菊花様の生誕の祝いの席でこんなことが起きてしまうのだろうか……いや、これが虞家のやり方だ。他国の王族が隙を見せる機会なら、たとえ祝宴の最中でも容赦なく攻め込む。そしてその場にいる王族は、女子供であろうと斬り捨て、根絶やしにする。たまたま、私にはそういう機会は無かったのだが、あのまま暗殺稼業を続けていたら、このような一族の暖かな宴の席に足を踏み入れることもあったであろう。今それを我々が受けている。なんて残酷なことだろうか。
壁際からの視点で状況を見る。玉英と鈴香は他の使用人や楽師たちと同じく席を立ち、出入口と窓から離れた場所で震えて固まっている。いつもは落ち着いた玉英も、いつも元気な鈴香も、恐怖で顔を引きつらせていた。彼女らを守る兵は二人しかおらず、襲撃があれば太刀打ちできないだろう。
王子王女らの護衛は武器を持って自らが仕える者の近くに立っていた。保星も剣を持って蓮玉様の傍にいた。焦りの色を滲ませながらしきりに周囲を見回す保星の横で、壁際に下がった蓮玉様は、真剣な面持ちで玉座にて起こっている出来事を見守っていた。
護衛が一人しかいない龍翔は、他の王子らと固まり、他の護衛らに守られる形で、部屋の隅で震えていた。まるで戦意はないみたいだ。
護衛の総数はこの場の虞家の武人を超え、十五人ほどになるが、彼らがみな保星のように腕が立つわけではない。酒が入っている者もいる。兵と連携すれば対抗できるか……微妙だった。
女性使用人から刀を受け取り、急いで腰紐に差して、菊花様に向き直って微笑んだ。
「大丈夫です。必ず守ります」
「……ありがとうございます」
菊花様も少し口角を上げてくれようとしたが、やはり不安が勝り、表情はすぐ戻ってしまう。私自身も無理をしていた。
王と長の言い合いは続いていた。長の持つ短刀も、王の首筋に当てられたままだ。
「我では力不足だというのか、成龍」
「そうではない、剛玄よ。変わりゆく世の中で、お前にも新たな役割を果たして欲しいと思っておった」
「我が勤めはただ武をもって敵を屠ることのみ。穢れし我らはひたすらに天下統一を目指さねばならぬ」
「国をひとつにまとめても、同じじゃ。反乱を抑え込む絶対的な力を持つなど、幻想にすぎんのじゃよ」
「……お前ははやばやと我を切り捨てればよかったのだ……」
「できるものか。互いに名を付け合った仲ではないか」
王はふっと笑いだした。すると長まで口元を歪め、喉の奥で笑うような音を出した。皆が黙って見守るなか、その奇妙な笑い合いはしばらく続いた。
「……どこの国にこの地を託すのじゃ? 東月か? それとも西鷹か?」
王の言葉に長はその切れ長の目を見開いた後、小さく呟いた。虞家はどこの国と繋がりを持ったのか……私に長の声は届かなかった。
「そうか……」
王は目を閉じ、しみじみと頷いた。目を開くと、穏やかな顔で言った。
「斬るのは儂だけにせい。皆能ある貴重な人材じゃ。次の国でも役に立つじゃろうて」
「……一族は根絶やしにする。それが取り決めだ」
「剛玄よ、頼む」
懇願する王に、長は黙り込む。その顔はめずらしく苦しそうに見えた。そして間をおき、ついに口を開く。
「……断る」
長の冷徹な一言に、王子王女らは怯えた顔を見せた。しかし王だけは表情を変えない。
「やれやれ、どこまでも、お前らしいのう……」
もしからしたら、ひどく諦めたような顔をしていたのかもしれない。
「なら、剛玄よ。せめて……あのときの誓い、果たそうぞ」
不敵に笑う王、そして長の傍らに、いつの間にか王妃が迫っていた。王妃がそのそばに立つと、長になにかを押し込むように踏み込んだ。
長が苦悶の声を上げる。長が顔を歪めるのを、私は初めて見た。
「……百麗……!!」
長の脇腹に、短剣が深く刺さっていた。血が溢れ出す。王妃が隠し持っていたそれで突き刺したのだ。
「見損なったぞ、剛玄。この、下衆め」
静まり返った場に、王妃の憎しみの籠もった言葉が響いた。長は目を見開いて、苦しそうにしながら王妃の怒りの顔を見ていた。
「皆、逃げよ!! 一人でも多く生き残るの……」
王が全員に向かって叫んだその時だった。言い終わろうというところで長が短刀を引いた。王の首から血が噴き出す。そして長は流れる動きで短刀を返し、王妃の喉を裂いた。王が玉座に崩れるように倒れると同時に、王妃もまた床に仰向けに倒れた。
脚を広げて立つ長へ、数人の兵から一斉に矢が放たれる。長はそれを何本も胸や腹に受けた。体が固まり、ぐらりと倒れそうになるが、足に力を込め、口を大きく開く。
「皆殺しに、せよ……!!」
長は踏ん張りながら最期の言葉を絞り出した。しかしすぐに上体が大きく回り、踏みしめていた足が片方浮いて、勢いよく横に倒れ込む。脇腹、そして口から血が溢れ出ていた。
壇上は、王、王妃、そして長の血で染まった。ところどころで叫び声が上がる。
悲鳴すら上げられず硬直する菊花様を抱きしめた。
なんてことだ! 頭が真っ白になった。目の前で起こったことが信じられない。これは夢ではないかと思いたかった。
「者共、オレの指示に従え!」
入口付近で待機していた虞家の武人の一人が叫んだ。長の死を目の当たりにした彼らは、動揺の色を見せたが、その大男の号令に呼応し、素早く行動に移った。
「まず一族を片付けるぞ!! 他のヤツらも逃がすな!」
次々と虞家の男たちが飛び出す。指示通りに、貴族や使用人たちの目の前を通り過ぎ、奥に固まる王子王女らの方へ駆けていった。守りを固める兵や護衛の存在に何の躊躇も見せないその動きに、全員が狼狽えるばかりだ。
兵が矢を番えるも、間に合わない。あっという間に間合いを詰めた男は、刀を振りかぶりながら跳躍した。着地と共に振り下ろされた刀が一閃し、一人の兵の首を刎ねる。
瞬く間に仲間を殺された兵たちはすくみ上がってしまう。その一瞬の隙を、暗殺稼業に身を置く男たちが見逃すはずはない。一人、また一人と、首が飛ぶ。鮮血が舞う。血の雨が降る。
そんな中、先頭の男が体当たりを受けた。男は転げるものの、受け身を取って即座に立ち上がる。舌打ちをする男の視線の先にいるのは、がっしりとした体格の保星だ。保星は男に斬りかかる。ギリギリで姿勢を戻した男は刀で受け止めた。剣の擦れる音を鳴らしながら、保星が前のめりに押し込んでいく。
「おい! コイツやるぞ」
男が即座に味方を呼ぶと、二人がその左右に駆け寄った。手練の保星といえども、三人を同時に相手にするのは厳しいだろう。保星は味方のいるところまで下がり、他の王女らと共に壁際に居る蓮玉様を背にする形をとった。
保星が中心に守る王女たちの場所は良いかもしれないが……数で勝るはずの王子らを守る兵と護衛が、あきらかに押されていた。護衛が五人もいるはずの第一王子が、その近辺まで虞家の男らに押し込まれている。王子自らも剣を抜いて構えていた。そこには睿霤もいる。かつて奴は、嫌々ながら第一王子の護衛として仕えていた。よりにもよって、元の主人に刃を向けるとは……。
このままではまずい。男たちが王子らを片付けたあとの次の目標は、王女。保星が守る蓮玉様たちはもちろん、ここにいる菊花様も危ない。
出入口から逃げられるか? そう思い扉を見ると、扉に残る虞家の武人二人が、戦いを挑んだ二人の兵をちょうど屠り終えたところだった。この二人……貴族や使用人たちを守る唯一の兵じゃないか! つまり、今この瞬間、玉英や鈴香たちは孤立してしまったのだ。
虞家の男の一人が、血塗れの刀を片手に彼女らに近づく。途端に大きな叫びが起こり、にわかに浮足立つ。人々は壁際から離れ、中央の空間にまで逃げ始めた。長机が倒され、料理が床に転がる中、人々が逃げ惑う光景が広がる。部屋中、大混乱だ。
「玉英! 鈴香!」
大声で呼んでも反応はない。二人を見失ってしまった。どうすればいいんだ……!
「兄上!」
菊花様が叫んだ。その向く方を見ると、肉付いた体の龍翔が駆けてきていた。
「助けてくれ! 菊花! 豊蕾!」
護衛を斬られてしまったのだろう。必死な顔で助けを求めてくる龍翔を見て、菊花様は表情を曇らせた。そのすぐ後ろには、虞家の大男が走ってきていた。私が行く前に追いつかれてしまう。間に合わない!
「剣を抜けっ! 私の教えを思い出せ!!」
「な……!」
困惑の表情を見せる龍翔だが、もはや一刻の猶予もない。彼はすぐに腰の直剣を抜いた。見ため短く細いその剣なんかで、それも素人に毛が生えた程度の腕前しかない龍翔に、それで危機を脱せるとは思わないが……彼にはそれしか選択肢が残っていない。
龍翔は反転。男は予想していなかったのか、足を止め損なう。そこに龍翔は、前に藁人形を何度も叩いたときと同じように、頭を狙う斬りを繰り出す。それは男の頭に綺麗に打たれた。
男は動きは止め……しかし、当たった箇所を撫でる。血は流れているが、背丈の差のせいか、浅かった。
「テメエ……痛えんだよっ!!」
怒りの一声とともに、男の大きな刀が振り抜かれ、直剣もろとも龍翔の体を斬った。血しぶきが飛び散る。そして腹に蹴りを喰らった龍翔は仰向けに倒れた。肩から胴までを深く斬られた彼は、白目を向いて痙攣していた。