女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 5話 双眸
屋敷の外。角の壁に張り付く私。向かいの木の幹に身を潜めるのは、私と同じく虞家の武人、背が高い短髪の男、睿霤。
私達は、その向こう側から見えないよう、朝日を避けて身を隠している。二人とも、既に刀を抜き、しんとした冷たい空気に同化するがごとく構えていた。濡れた枯れ葉が地面に散らばっている。音が立たないよう、移動は最小限。視線の先には見慣れぬ男。草色の服に身を包み、腰に刀を差している。頭に頭巾をかぶっていて、露わになっているのは目だけ。そいつは屋敷の外壁を伝い、たどり着いた茂みで身を隠しているつもりのようだ。だが我ら虞家の者にかかればその強い視線に気づかぬわけがない。滑稽なものだな。
睿霤が顔を私に向け、左手を上げて扇ぐように前方へ動かした。睿霤らしい雑な合図だ。小さく頷くと、睿霤は足を踏み出した。私も同時に飛び出す。まずは歩くように音を抑えて足を回転させる。そこから一気に加速、地面を蹴る。睿霤と共に早駆け。虞家の者の多くは、長が得意とする早駆けを修得しようと躍起になっている。しかし、長の唯一無二の走りの域に達した者はいない。それでも私は男共に負けないほど速くなった。ほら、今、睿霤より先に男のそばに着く!
男が振り向き、静止した。もう男の首元に、私たち二人の刀の切っ先が突きつけられているからだ。男の前側に私が、後ろ側に睿霤がいる。男は肩で息をしていた。
男が懐に手を入れたので、咄嗟に刀を喉元に近づける。
「動けば刺す」
男は懐の手を広げて見せた。何も取り出さないという意思表示だ。
「つまらぬなぁ。抵抗して見せたらどうだ」
睿霤の嘲笑うような声と同時に男が呻く。睿霤の刀の切っ先が、男の背中をツンツンと突いていた。というか、少し刺さっているな。
「やめろ、お前。まだ何も聞き出していないだろ」
「手向かってくれるようなら、ここで斬って捨てる口実ができるというものだが」
睿霤はにやにやしながらも刀を止めた。こいつは第一王子の護衛を務めているのだが、実戦の機会がほぼない仕事は彼の性に合わないらしく、こうして暴れる機会を狙っているようだ。呆れながらも男に向き直る。
「誰に雇われた」
「答える義理はない」
男は即答した。なかなか肝が据わっているではないか。しかし、この状況でよく言えたものだ。すぐに男は苦悶の声を漏らす。
「答えぬか。ほら、ほら」
睿霤の刀の先が男の二の腕を突いていた。今度も、刀の先端が男の服を貫いて、肌に刺さっている。
「睿霤。ここで聞き出さなくとも、縛って兵に引き渡せばいいだろ」
「それもまた一興か」
「一興って、お前……いい。もう、縛るぞ」
睿霤が男を無駄に傷つけるので、とっとと縛ることにした。男を後ろ手にさせ、男の服の袖を刀で裂いて切り離し、それを使って手を縛った。
「器用なことよ。すっかり子守が板についたな、豊蕾」
布を切るのが、裁縫の作業か何かに見えたのか?
「関係ないだろ……。それに、菊花様をお護りするのは子守などではないと、何度言えばわかるんだ」
「違わぬ」
睿霤は喉の奥で笑い声を鳴らし、縛り上げた男の服を掴んで立たせる。男はよろけながらも立ち上がった。
まずは我ら虞家の長に見せなければ。毎度、王族に対して何か話を通す際はそうするのが慣例となっていた。
「ほら、歩け」
睿霤が男を掴みつつ蹴っている。日頃の鬱憤でも晴らしているかのようだ。まあ、男に同情する理由も無いが。
「私は菊花様の元へ戻る。この男は頼んだ」
「せいぜい子守に励め」
「だから違うと言っているだろうが!」
叫びをその背に浴びせるも、睿霤はひらひらと手を振って、男を引っ張り去っていく。本当にムカつく奴だ。
ひとまず男を捕らえたので、菊花様にとっての危機は去った。足早に彼女の元へ急ぐことにしたのだった。
「もう大丈夫です」
書庫の奥へ声を響かせた。すると、書棚の影から小さな人影……菊花様が現れた。おろした髪が揺れる。お決まりだったお団子の髪型から、今はこの、左右の髪を真後ろに流した髪型が定番になりつつある。
その顔は微笑みをたたえており、恐怖心は全く感じさせないものだった。
「ありがとうございます」
菊花様はそう言いながら頭を下げた後、私に歩み寄ってくる。
後ろ頭にある髪留めがちらりと見える。菊花様の母君の形見である、木彫りの髪留め。
私の失態で割ってしまってから1ヶ月は経つ。あれから私は、それの補強に取り組んでいた。蓮玉様を頼ると、なんとさっそく職人を手配してくださった。職人に託し、そしてつい昨日、髪留めは帰ってきた。木彫りの意匠はそのままに、湾曲した板の形をした銅の枠がそれを支えている。その枠部分に穴が開いていて、金属の棒が長さ方向に差し込まれているのだ。割れてしまった箇所の繋ぎ目は、木の色味をした塗り物で隠された。木の表面は保護材によって艶が出ている。要は、髪留めは直り、実用の水準に達していたのだ。これには感動した。
「豊蕾、どうしました? そんな嬉しそうな顔をして」
菊花様が首を傾げていた。私は慌てて首を横に振る。
「いえ、なんでもありません。侵入者は捕縛して、睿霤が連れ回していますのでご安心ください」
「そうですか……良かったです」
菊花様は心底安堵したように胸を撫で下ろした。
まだどこかに何者かが潜んでいる可能性はある。だが睿霤が長に事態を報告すれば同胞たちがやってきて警戒にあたるだろう。そして菊花様の身はこの私が必ず守る。
菊花様の部屋にいると、扉が叩かれる。
「豊蕾」
若干しわがれているが、はっきりとした声。
長!? 虞家の長が、直々に来たというのか? 急いで扉を開けると、そこにはやはり、長がいた。
背は、かつては睿霤と同じくらい高かったが、今は私より多少高い程度だ。顔には皺が深く刻まれてはいるが、鋭い眼光は変わらない。真っ白の髪は短く切り揃えられ、髭はない。肌はすっかり黒ずんでしまった。歳と、過酷な暗殺稼業をこなしてきた結果だろうか。ただ、その仁王立ちをしているかのような佇まいからは、衰えというものを感じ取れない。服は、すぐにでも仕事に出られるような、袖口を縛った黒い服を着ている。長は戦闘時に服がはためくのを嫌い、このような格好を好む。それを普段から着ていた。
顔からは感情を全く読めない。無口で、口を開けば、号令するかのようなキレのある声を出すのがほとんどだ。そして必要最低限のことしか口にしない。そんな寡黙で厳しい方が、いったい私になんの用なのだろう?
「何用でしょうか」
「ついてくるのだ」
それだけ言うと、長はすぐに振り返り、歩き始めてしまう。
「し、しかし、菊花様のお傍を離れるわけには……」
「姫君も連れてくるがよい。行くのは主殿の元だ」
長は足を止めず、振り返らずに言い放った。長が言う主殿というのは王を指す。菊花様も連れてこいということである。
「は、はい。今行きます……!」
背後の菊花様が慌てた様子で返事をした後、ぱたぱたと駆けてくる足音が聞こえてくる。
王女である菊花様相手であっても長は無遠慮に歩みを進める。その歩調は速く、追いつくのがやっとであった。
「すみません、お待たせいたしました」
「いえ、急ぎましょう」
追いついた菊花様とともに、風を頬に受けながら、長の背を追うのだった。
やがて、大きな扉に辿り着いた。左右には槍と鉄鎧で武装した兵が立っている。長が扉の前に立つと、兵は無言で扉を開け放った。兵はわかっているのだ。虞家の長の顔は覚えられているし、長と王は……。
「成龍。これで揃った」
長が、部屋の奥へ声を放つ。成龍とは、王の名だ。長は国王陛下の名を呼び捨てで呼んだのだ。
「剛玄よ、ご苦労じゃったな」
王陛下の張りのある声が、部屋から聞こえてくる。長はそのまま部屋へ入っていく。
剛玄と成龍……長と王は、建国前から苦楽を共にしてきた旧知の仲なのだそうだ。だから、長は王を陛下と呼ばず主殿と言うし、本人に対しては成龍という名前で呼ぶ。
私も部屋に入る。そこは広い空間だった。左右に武装した兵が何人も並んでおり、ものものしい雰囲気が漂っていた。
手前に綱を掴んだ一人の兵が立っていて、そのそばには、さっき捕らえた草色の服の男が床に座っていた。後ろ手に縛られて座らされているようだ。頭巾はとられ、長い黒髪の頭が露わになっている。男は顔を振り向かせて私たちを睨みつけたが、すぐに顔を背けた。そして一段上がった奥では王が金飾で施された豪奢な椅子に腰掛けている。その左右にも兵が並んでいた。
王を見るのは、ひと月以上前に私が第三王子から模擬試合を強いられたとき以来だ。相変わらず健康そうな肌色が、背後の大窓からの光によって輝いているが、彼の正面にうっすらと作られた影が、相対する男との間に張り詰めた空気を作っていた。彼の様子自体は穏やかで、長の鋭い目とは対照的な優しい目のままだ。ちなみに長と王の歳は共に五十台程だと思うのだが、王の方がはるかに若々しく見える。
「おお、豊蕾よ、そなたも来てくれたか」
「はい」
王陛下の御前だ。跪かなくては。
「ほっほ。菊花とは仲良くしてくれているようじゃな」
「え?……あ」
私を見て目を細める王。そうだった。今、私は菊花様の小さな体を抱えているのだ。左手で背中を支え、右手で、下を持ち……。
視線を落とすと、菊花様の大きな漆黒の瞳がこちらを見ているのに気がついた。長との足並みを揃えられなかった菊花様を、私は抱えてここまで来たのだ。それがすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。さすがに恥ずかしいのだろう。菊花様の顔は紅潮していた。
「あの……」
微かな吐息を感じる。彼女の匂いを感じるほどに顔が近い。
「す、すみません」
ゆっくりと姿勢を落とす。菊花様は床に足を着け、私から降りた。彼女が耳を赤くし、組んだ手を下げて俯いているのを見ると、なんだか私も恥ずかしくなり、慌てて王に跪いて顔を降ろす。
「やはり、子守だな」
聞き覚えのある男の低い声。喉の奥で鳴らした笑い。声の主へ顔を向けると、案の定、あの男。
「お前、なぜここに……」
睿霤が下がったところで立っていた。腕を組みながら、私を見下す。
「そこの犬畜生を見ればわかるだろう。奴の件で俺たちが集められているとな」
嫌味な言い方に苛立ちを覚えたものの、それで状況が把握できた。王は私たちに状況の説明を求めようというのか。
「豊蕾よ。おもてを上げい。その美しい顔をよく見せてくれんかのう?」
にこにことした表情で見ている王。とても親しみやすい雰囲気を持っている方だが、どこか軽薄な印象を受ける。使用人を側女にしないまま自身の子を産ませ、その子……菊花様の境遇をかえりみずに、王女としてここに住まわせているという無責任な事実が、そうさせているのかもしれない。それがなければ、私の目にも、この王が人望ある良き君主として写っただろうか。
菊花様は兵と共に退室した。これからこの侵入者を尋問する。まず私がこの男を見つけて捕らえた経緯を話した。
「……そうか。この者は何も話さんのか」
「はい。我らの質問には答えません」
結局、内容のない話しかできなかった私の言葉に、王は顎髭をしごきながら考え込んだ。
「ふむ、それは困ったのう」
王は侵入者の男を見つめていた。対して男は上目で王を睨みつける。一国の主にして王たるお方に、なんて無礼な奴なんだ。
「何か持っていたかの?」
王の言葉に、睿霤が間を置かず何かを床に投げ置いた。鈍い音を立てて転がるそれを皆が注視する。
「ほう……小刀に刃……」
「こやつの国はおそらく東月だ。そこの草ではないか」
「なるほど、あそこは飛刀術を重んじておるからのう。さすがは長い歴史を持つ大月じゃな、のう?」
睿霤の推理に納得した王は、侵入者の男に笑いかけた。大月という呼び名は東月という国に住まう住民が自国を讃美するときに使うものだ。王は男の心に寄り添おうというのか。しかし、男は眉間に深い皺を寄せ、王を睨みつけたままだ。
「良いところじゃな、あそこは。そなたくらいの歳の頃、剛玄や我が伴侶と共に大月の都を訪れたことがあってのう。あの酒場にいたおなごは美しく……」
「お前らが我らの地を奪ったのだ」
突然、男が口を開いた。王の言葉を遮るように、低い声を発する。
「この地は大月のものだった。それを、お前たちが勝手に奪ったのだ。我らの同胞を殺し、土地を奪い、同胞を奴隷のように扱い……。そのような野蛮な者どもが、美しい国を、大月を語るな!」
男が言い放つのを、王は平静とした顔で聞いていた。だが、瞳の奥には鋭い光が宿っている。もしかして、こう言わせるのが狙いだったのか?
「……食わせ者め」
「そんなつもりはないぞい。さて、この者が何も知り得ないのであれば解放しよう。問題はないかの?」
「どうだろうな。こやつの行動すべてを見たわけではない」
睿霤が男に向かって歩み寄ると、そのまま脚を上げ、男の脇腹を蹴った。男は苦悶の声を漏らす。
「吐け。何を知っている」
「何も知らん……!」
続けて睿霤が男の頭部を蹴り飛ばす。男は床に倒れてから、肩を上下させて荒く息をしていた。そこまですることか?
「おい、そのくらいにしておけ。こいつは屋敷に入らなかったし、遠目から中を眺めていた程度だろ」
「東月の草など、とにかく痛めつけてやればいい」
「お前、陛下がせっかく恩情をかけてくれようというのに……」
私と睿霤が言い合っているのを、王は黙って見ていた。
「……ならば面白い話をしてやろう」
男が身を起こし、口を開いた。皆が一斉に注目する。
「ほう、言ってみよ」
「鎧をまとわぬ奴らは虞の一族だな」
緊張が走った。私を含め、動きやすい服装をしている睿霤と長は当然該当する。睿霤は動きを止めた。長はずっと腕を組んでじっとしているが、男の言葉に集中したかのように感じる。
「彼ら虞家は儂ら王家の良き友じゃ」
「本当にそうか? 王サマがそう思っていても、こいつらが裏で何を企んでいるかはわからんぞ」
「なに? 我らがはかりごとをしているというのか?」
つい聞き返す。当然、そんな話は聞いたことが無い。王も訝しげに眉根を寄せた。
「下っ端風情は聞かされんのかもしれんが……」
鈍い音。睿霤が男の脇腹に刀の鞘を叩き込んだ。男は痛みに呻いた。
「黙れ。適当なことを抜かすな、犬畜生が」
「吐け、と言ったら、次は、黙れか。よほど、お前らには、都合が、悪い……」
苦しい叫び声。睿霤が鞘に力をいれて男の脇腹にめり込ませる。
「睿霤よ、話をさせてやるがよい」
王が手をかざして制止する。しかし睿霤は力を緩めない。
「睿霤……どうした?」
私の言葉にも睿霤は反応しない。男を痛めつけるその姿に、背筋が冷えた。
「剛玄よ、睿霤を止めてくれんか。これでは話を聞けん」
「戯れ言は要らぬ」
王の命を長は一蹴した。どうしたというんだ?
「いいだろう、話してやる……!」
苦しみながら、男が言う。
「専らの、噂だ。虞家の連中は、その武を、高め、人頭も、揃えている。いまや、王家の私兵を、凌ぐほどだ、と。刃向かうには、十分……」
そこで大きな悲鳴を上げた。睿霤が足を踏み込み鞘に体重をのせたのだ。
「何を言うかと思えば。俺たち虞家が力をつけたことへの妬みか! でたらめを言うな」
「……そう、思うか? だが、事実だ! 睿霤とやら、お前は、どこまで、聞いている? 我らが大月の者は、このオレ程度でも……ぐおおっ!」
「妄言も大概にしろ、犬畜生……!」
睿霤は内臓を潰すかのごとく、鞘を脇腹にめり込ませた。思わず息をのむ。
苦しさに呻き続ける男が突然咆哮を飛ばす。そして力の限りを尽くかのごとく言葉を吐き出した。
「虞家の狙いは!!」
瞬間。黒影が私たちの目の前をよぎった。それは男の目の前に躍り出る。
一筋の銀。影が止まると、刃が男の喉を貫いていた。
長だ。風のように駆け、瞬時に抜刀して、正確に男の首を刺したのだ。姿勢を下げ、柄の先を右手で支えた状態で静止している。
見事。神速の剣こそ、長の真髄だ。
男は血を吐き出し、そのまま動かなくなった。男が事切れたことを確認すると、長は刀を抜き、血を払って鞘に収めた。
その光景に皆動けずにいた。男を痛めつけていた睿霤ですら、目を見開いている。
「剛玄よ。儂は別にこの者の話を真に受けていたわけではない。戯れ言だとしてもすべて聞いておいて損はなかったであろう」
「聞くに堪えぬが故」
冷たく鋭い言葉。長は振り返り、扉へ歩みだしたが、途中、振り返る。
「成龍、我が忠誠は変わらぬ」
「わかっておるよ」
王は笑顔で応えた。長は出て行ってしまった。
「ふん、つまらん」
睿霤が男の亡骸を蹴飛ばした。
王は兵へ命じ、男を運び出させ、血に汚れた床を掃除させた。
「睿霤」
「どうした。むごさに怯えたか?」
「いちいち馬鹿にするな。どうしてあんな……王に逆らってまで言葉を封じたんだ」
王に聞こえないように、声を潜めて尋ねる。
「お前はあんな奴の言う事を信じるのか?」
「そうじゃないが……」
「ならいいだろう」
「よくない!……ちょっと来い!」
睿霤の手を引く。そのまま部屋の外へ連れ出す。
「どうした、どうした。そんなに怖かったのか」
「違う! 少し静かにしてくれ」
そう言って、私は小さな空き部屋に入った。他の者が入ってこないように扉を閉める。途端に暗くなったので、小窓からの光が刺す中央まで進む。
「おかしいだろ! 男から話を聞き出すはずだったのに。長だって、いきなり殺すとは……」
訴えながら睿霤に近付く。だが奴は黙っていた。その切れ長の目を、なぜか私の目に合わせてくる。ぎょっとしたが、疑問をぶつける。
「男の言うことが虞家にとって都合の悪いことだったからか? 事実でないならただの戯れ言と済ませることもできたはずだ。なのになぜ……」
それを言っても睿霤は何も言わない。ただ、私の目を見つめてくるだけだ。否定しないということは……最悪の考えが頭に浮かぶ。
「……まさか……男の言うことが……事実」
左肩に何かが押し当てられる。睿霤の右の掌。
「な……!」
一歩踏み込んでくる。思わず後ずさった。
「え? ちょっと……」
二歩、三歩と近づいてきて、慌ててしまう。押されるがままに後ろへ下がっていくうちに、壁に背が付いてしまった。
背後で鈍い音。顔の右に睿霤の引き締まった腕。熱気と汗の混じった匂いがする。
かすかな明かりでもそれは見えていた。暗黒の森で獣が獲物を口中に収めたかのような、睿霤の双眸。見下ろす切れ長の目に、視界が支配される。わずかな光を集めた薄褐色の瞳が、ただじっと私を見つめる。息を荒げた。言葉が出ない。ただ、心臓がばくばくと鳴る音だけが聞こえる。
「昔から変わらず生意気なお前も、こうして見れば、ただの女だ」
長い睫毛、透き通った瞳、高い鼻。憎らしいほど整った顔。
「だが、ガキ臭いやつだったのが……」
吐息がかかる。何も考えられない。心臓が痛いくらい高鳴る。頭が真っ白になる。
「こうなるとは……」
頭を下げ、その顔が向かってくるところは、首。
「やっ……やめ……!」
息、熱。奴の顔が首元にうずまろうと、近くに。
「……やめろッ!!」
「ふうぅっ!!」
拳を一発。奴の腹に入れた。変な声で吐き出される息。うずくまる奴の体を避けて壁から脱出、横から奴を見下す。
「こ、この、変態野郎……!」
睿霤は殴られた腹を押さえながら、苦悶の表情を浮かべている。いい気味だがやり足りないくらいだ。
「熱に浮かされてるのか! 男をいたぶって、今度は私まで……!」
「ふ、やはりガキだ。昔と変わらん」
「なんだと! 私が子供だろうが大人だろうが、お前がしたことは……」
「虞家としてふるまうなら覚悟を決めろ。女子供を斬れぬ腑抜けのままなら、去ることだな」
突然、真剣な口調で言う。
「なに……?」
「今のは忠告だ」
「は……? 何を言って……」
その時、部屋の外から聞きなれた少女の声が聞こえてきた。
「豊蕾? どこにいるのですか?」
菊花様だ。心配そうな声色が、扉の奥から聞こえてくる。
そうだ、兵士に預けたままだった。
「すみません、今行きます」
慌てて扉に向かう。
「豊蕾、子守もほどほどにしろ」
「だから子守ではないと……!……それも忠告なのか?」
振り返ると睿霤が立ち上がって、暗がりの中で見下ろしていた。
「その通りだ」
「虞家の一員だからこそ、菊花様をお護りしているんだ。なぜ、お前にそんなこと言われなければならないんだ」
「お前自身で考えろ」
「はあ? 睿霤、おまえ……」
「ここですか? 入りますよ?」
「え、ちょ……」
扉が開く。
「ここでしたか。探しましたよ……あら?」
菊花様が不思議そうな顔で私と睿霤を見る。
「二人とも、何をしていたのですか?」
「いえ、別に……」
これはちょっとマズいのではないか。睿霤と二人きりでいたのを、変に思われているのでは。
「ええと、なにもないですから……」
「そうですか? お仕事のお邪魔にならなければよいのですが……」
「ああ、いえ。もう終わりました」
「そうですか。では、豊蕾。帰りましょう」
頷き、歩き出そうとするが、ふと気になって振り返る。睿霤と目が合うが、すぐに逸らされた。
さっき起きたことを思い出してしまう。
「豊蕾、大丈夫ですか? 耳が赤いです」
「な、何でもありません!」
慌てて扉で蓋しながら外へ出た。