女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 11話 散華
人々が我先にと逃げ回り、怒号が飛ぶ。一方では悲鳴、嗚咽、そして狂喜の笑い声が上がる。まさに混沌であった。
そんな中、私と允明は刀を向け合ったまま対峙する。背後には菊花様がいる。彼女に奴を近づかせはしない。
「どうした? かかってこいよ、豊蕾。この雑魚女」
大柄の允明が見下してくる。亡き龍翔が斬ってつけた左頭の傷からは血が流れているが、その勢いはおさまりつつあった。允明はさっきまで痛がる様子を見せていたのに、今は平然として私を嘲笑っている。左目が半開きなのも相まって、不気味だ。
龍翔の無念を晴らすため、そして菊花様を守るため、私は刀の柄を握り直した。
「言われるまでもない」
「はっ、よく言うぜ! テメエがオレに勝てるわけねえだろ。一度だって勝てたことがねえくせによ」
「前までの私と思うな!」
私は駆け出した。姿勢を落とし、刀を下げたまま突進。そのまま斬る……と奴は思うだろう。允明は大刀の横薙ぎを合わせてくる。私は足を緩め、下から振り上げた刀身で受けた。ガツッという金属音が響き渡ると同時に火花が散る。力では勝てず、十分に弾けない。受け流すようにして後ろに飛び退き、間合いを取った。
私の愛刀は、腰の後ろに下げた儀礼用の直剣よりは頑丈にできているものの、切れ味に重きを置いた細めの刀身であるため、重量のある大刀との打ち合いには向いていない。今みたいに振りの横から当てることはできても、正面からだと、龍翔の剣のように、勢いすら殺せずに折れてしまうだろう。奴の斬撃を受けるなら横、それも刃ではなく腹を使って逸らし、力を逃がすしかない。
「何も変わんねえじゃねえか。ひ弱な女のままかよ?」
また奴は余裕の表情を見せた。力が全て、筋骨隆々のオレ様が最強とでも言いたいのだろう。力の差が勝敗を分けるのは事実だ。だが、私はそれを覆すがために、疾きを尊ぶ剣術を鍛え続けてきたのだ。昔こいつに組み敷かれてから……こいつのような力馬鹿の男共に負けないために。
「そう思うか?」
こちらの狙いを気取られぬよう、多くは語らない。允明が滑稽に思え、ふと笑ってやると、奴は顔を紅潮させ激昂した。
「クソ女が!! その澄まし顔ごと叩き斬ってやる!!」
今度は上段からの斬り下ろしだった。これを受けたら龍翔のように刀ごとやられる。斬撃が外れるように体を傾け、軌道に這うように私の刀を出す。允明の大刀が私の刀の刀身を滑っていく。その刹那を狙って彼の懐に入り込み、刀を巻いて振り上げ……。
腹に衝撃。激痛が体に走る。めり込む拳。允明の左拳だった。奴が攻撃を外した瞬間を狙ったのだが、読まれていたのだ。息が吸えない。動きが止まる……いけない、動かなければ。
何とか喉を動かし空気を取り込んだ時、視界に影がかかった。来る!
咄嗟に横に転がろうと体を傾けた直後、すぐそばで風を切る音がしたかと思うと、髪が数本千切れたのを感じた。間一髪で回避したのだ。少しでも遅ければ、私の首は落ちていた。床に手をつきすぐさま立ち上がるも、允明は追撃の手を休めない。次は右脇腹めがけて蹴りが来る。体を捻りながら左に避けたが、僅かに間に合わなかったようだ。右の肋骨付近に強い衝撃を受け、肺の中の空気がすべて吐き出された。あまりの痛みに意識が遠のくが、堪えて相手との距離をとり、構えなおした。
大刀の死角を体術で補っている。意外と隙がないのだ。しかも一撃の重さが尋常ではなく、一発でも貰えば死につながりかねない。
息を吸うのに必死な私の顔を見ながら、允明はニヤニヤしていた。まるでおもちゃで遊んでいるかのように。こいつは昔からそうだった。自分より弱い者を相手にしたがるのだ。この場でも自ら指揮すると宣言しておきながら、一人前線から離れて龍翔を追い回して殺した上、今こうして私を痛めつけている。自分は強いと思い込み、優越感に浸りたいのだろう。そして今、私がそのためのダシにされているのは癪だ。
「どうだ雑魚女、オレが怖いか? 泣いて詫びるか? ああ?」
挑発しているのか悦に浸っているだけなのかわからないが、調子に乗られるのは気持ちがよくない。呼吸が整ったところで、私は再び笑ってやった。するとやはりつっかかってくる。
「テメエ、イキがんのもいい加減に……」
「允明。睿霤に一撃でのされたお前こそが虚勢を張っているよな」
その一言で允明の顔は固まった。これを言えば、奴は必ず怒るだろうと思っていたのだ。予想通りの反応である。
「テメエ……ふざけんじゃねえぞ」
「事実を言っただけだ」
過去、允明が睿霤と戦ったとき、木刀のひと突きで允明は倒れた。それを奴の子分たちに見られたせいで、奴は子分にも見くびられ始めたのだ。そのくせ允明は睿霤に雪辱を晴らそうともせず、睿霤を避け続けていたのだから、自業自得としか言いようがない。
「このアマ……!ぶっ殺す!」
怒りのあまり右目を血走らせて突進してきたので、私も迎え撃つべく走り出した。奴は大刀を振り上げる。どうやら袈裟斬りのようだ。さっきみたいに懐に入れば、また同じように殴られるだろう。だが今回は読みやすい攻撃なので避ける方向は選べる。そして、頭や胴以外にも狙える場所はある。
大刀を左上から振り降ろしてきた。左に刀を避けると、すかさず私は奴の脇の下に潜り込む。
「させるかよ!」
そう言いながら、允明は体を捻る。わかるぞ、次の手は。奴が刀を握る利き手側に回ったので、左の拳は届かないだろう。大きく踏み込んでいるので、体当たりをするにも姿勢が悪い。刀を返すか? いや、こいつならきっと……。
允明の体をかすめるように、右前に踏み込んだ。左側で風を切る、奴の足蹴りの音を聞く。案の定だ。目の前には、振り下ろされて止まったままの、奴の右手。私はすれ違いざまにその手めがけて斬り上げる。ごつい奴の腕より断ちやすいであろう、手首を斬った。奴の右手が飛び、硬い音を鳴らす大刀とともに床に転がった。
允明の右手首から血が噴き出す。奴はその腕を胸に掲げ、顔と体をこわばらせて呻いていた。肢体を断たれれば、その痛みには耐えられまい。私の勝ちだ。
一息つき、菊花様の方を見やると、彼女は目を大きく開いて呆然としていた。彼女を守るためとはいえ、衝撃的だったろう。目の前でまた人が斬られたのだから。
「菊花様、安心してください」
そう声をかけても、彼女は表情を変えなかった。より安心してもらえるようにと、微笑んでみる。
「大丈夫です。行く先々の敵は、みな私が斬り捨てますから……」
「……ふ、豊蕾……!」
震える手で指をさす。私の隣……後ろ?
後頭部に衝撃。硬い棒のようなもので突かれたような痛み。そしてその後、湿ったような嫌な感触があった。生臭い、鉄臭い。大きく前のめりになってしまう。髪にべったりとしたものがついている気がした。私の血か? 刀で突かれたのか? 一瞬そう思った。だがそうではないということを思い知る。
「豊蕾!! このクソアマ!! よくもオレの手を!!!」
左肩を掴まれたかと思うと、思い切り引かれ、後ろを向かされる。
允明の怒りの顔。 右目は血走り、興奮していた。歯を食いしばり、鼻息荒く、口から唾液が垂れている。奴は残った左手で私の胸倉を掴んできた。私が斬った奴の右手首からは、尚も血が噴き出している。
「な……!?」
なんだこいつ!? 右手首の断面で私を殴ったというのか!? 馬鹿な。奴は痛みを感じないのか?
「よくもやりやがったな!! 許さねえぞ!!」
そう言って奴は右手首の断面で私の顔を殴ってきた。頬に奴の骨が硬くぶつかり、奴の血肉がべっとりとこびりつく感触がした。ぞっとする。
「豊蕾!!」
菊花様の呼ぶ声が聞こえるも、私は允明の左手に持ち上げられ、そのまま壁へと運ばれていく。壁に叩きつけられると、背中に大きな衝撃が走った。苦悶の声が漏れてしまう。そのとき、私は右手の刀を床に落としてしまった。胸倉を掴まれ、壁に押し付けられているため拾えない。
「離せ! このっ!」
両手で奴の大きな左手を引き剥がそうとするもびくともしない。このままではまずい。
「殺す!! ぶっ殺す!!」
腹に刺すような痛み。手首の断面が私の腹を殴った。みぞおちに硬い骨がめり込む。全身が硬直した。息ができないほどの衝撃が私を襲う。
叫び声を上げる允明が私の腹を殴るたび、私は激痛とともに声にならない悲鳴を上げていた。苦しい。耐えるのに必死で、私の両手は奴の左手から離れた。
「死ね!! 死ねえっ!!」
今度は右腕を振り上げ、頭を殴ってきた。私は反射的に手で庇い、顔をそむけるが、奴の手首の断面は私の側頭部に当たり、鈍い音を響かせた。視界が歪む。頭が痛い。
そのまま允明は私の顔を殴る。手で防ごうとすると、奴の血肉に触れ、指に引っかかって抉れた。それでも奴は痛がる様子も見せない。それどころかさらに興奮して殴り続けてくる。顔は血まみれでべたべたになっていた。痛いし気味が悪い。言いようもない恐怖を感じていた。
「……逃げてっ……菊花様……!」
朦朧としかけた意識の中で、私は菊花様にそう訴えるしかなかったが、声が彼女に届いているか、わからない。
一心不乱に殴り続けてくる允明の目が見えた。右目は真っ赤に充血しており、まるで獣のようだった。正気を失っている。そして左目……半開きのその目の中の瞳は不気味な雰囲気を醸していた。それは黒と白が混じり合う灰色が石のようなまだらを描いているようだった。それはまるで、生気を感じない。
これは、まさか。私はある確信を抱いた。やるしかない。
尚も殴り続ける奴の手首の断面。それを額で受けた。骨の硬い衝撃も、血肉の気味の悪い感触も、この一瞬だけ耐えた。そして、力を振り絞って、右足を上げ、体を捻り、允明の左頭を蹴る。
乾いた音。明らかに浅い。しかし私はこれに賭けていた。
この蹴りで允明の体が揺らぐことはなかった。だが奴の動きは、この瞬間ぴたりと止まる。
私が蹴ったのは、允明の左頭の傷。龍翔の最期の一撃によってできた傷跡だった。
「……気持ちわり……」
允明は表情を固くして小さく呟いた。意識と体の繋がりが掛け違いを起こしたかのように、奴の体は立ったまま動かなくなった。今だ!
後ろの腰に下げていた儀礼用の直剣を抜く。そして刃のない刀身の先を両手で掴んで柄のほうを上にする。それを壁際まで思い切り振り上げ、遠心力をかけ、奴の左頭に叩き付けた。
鈍い音が響く。それと同時に、奴の口から弱弱しいうめき声が聞こえた。白目を剥き、ゆっくりと前のめりに倒れる。私は力が抜けた允明の左手を剝がして床に下りた。奴は床板を軋ませて倒れ伏し、真下を向いて白い泡を吹きながら動かなくなった。
さっき奴の左目が濁っているのを見てわかった。龍翔の最期の一撃は効いていたのだ。即死はさせられなかったものの、頭を割り、損傷は与えられていたのである。そのため允明は神経が麻痺し、手首を斬り落とされたとき、痛みに悶えなかったのだろう。龍翔は自分の身こそ守れなかったものの、奴に一矢報いていたのだ。そう思うと、少し心が軽くなった気がする……のだが。
床に座り込み、乱れた呼吸を何とか整えようとするも、なかなか落ち着かない。体中に汗が噴き出ていた。
横を見ると、菊花様が涙を流して私を見つめていた。私の姿はよほど酷い有様なのだろう。血を吹く手首の断面で殴られ続けていたのだから当然か。服も髪も顔も血だらけだ。
菊花様を心配させまいと思い、刀を拾って立ち上がろうとするが、腹の痛みに耐え切れず、膝を折ってしまった。
「豊蕾! 豊蕾!」
泣きながら駆け寄ってきた菊花様は、私に抱き着いてきた。その涙で濡れた頬の感触で、私の心はさらに締め付けられるようだ。彼女を泣かせてしまった自分が情けない。だが同時に、死を覚悟したそのあとで、こうして彼女の腕に抱かれていることがとても幸せだと感じる自分もいるのだった。
「ごめんなさい……すみません……もう大丈夫です」
「ああ……よかった……本当に……豊蕾……!」
安心させようと笑ってみせると、彼女はより強く抱きしめてくれた。涙が肩に染み込んでいくのを感じた。その温かさが心地良い。
この一瞬の抱擁が、永遠といえるほど長く感じられた。互いの存在を確かめ合い、一つになったかのような感覚を、これからもずっと忘れない、忘れてはいけないというような想いに陥っていた。
「允明を破ったか。豊蕾」
不意に男の声をかけられる。顔を上げると、少し離れたところに虞家の武人が三人、抜き身の刀を手にして立っていた。
「裏切者め、覚悟いたせ」
「我ら三人で相手してやること、光栄に思うがいい」
三人は私に刀の切っ先を向けてきた。
虞家が一人を三人で相手するというのは、その相手を強者と認めているという証拠だ。しかし同時に、その対象は必ず殺害するということを意味している。
「お前ら……王子たちはどうしたんだ」
「片付いた。今は王女らと残りの奴らを手分けして始末している」
「……王族以外の者まで斬らなくてもいいだろう」
「手落ち無きよう皆殺しにするのが我等の務め。お前もそれくらいは心得ていよう」
「豊蕾め。お前のその甘さには皆呆れておるわ。腕は上げたようだが、所詮はたかが女よ」
三人の武人は刀を構えたまま答えた。王子、そしてその家族が皆斬られてしまった。護衛の保星らが守る蓮玉様ら王女たちも、いずれ殺されるだろう……いや、すでに殺されていてもおかしくはない。逃げ回る人々に混ざっている私の友人の玉英と鈴香だって……。
「……お前ら……!」
「豊蕾、どのみちお前もここで死ぬのだ」
「その懐の王女を差し出そうが、自ら斬ろうが、それは変わらぬ」
「来るがいい。かつての同志としてのよしみだ。苦しまぬよう殺してやる」
三人の武人はそれぞれそう言うと、じりじりと迫ってきた。私は懐の菊花様を抱き返しながら、近寄ってくる彼らの姿を見据える。
勝ち筋が、見えない。虞家の精鋭、まして三人相手では、裏をかくこともできない。逃げることも不可能に近い。だが、このまま何もせずにいれば確実に殺される。
菊花様だけを逃がすにしても、この広間のあちこちには虞家の武人がいるはずだ。護る者から離れてしまえばすぐに……。
息が荒くなっていた。菊花様の肩を掴む手が汗で濡れ、震えるのがわかった。落ち着け。考えろ。何か方法があるはずだ。どうにかしてこの場を逃れるんだ……!
そのときだった。何者かが男三人のうち右側の者を、何か大きな物で横から殴りつけた。ぱきりと乾いた音が鳴る。
「……鈴香!」
椅子を男の頭に叩きつけたのは、友人の鈴香だった。いつも明るい彼女は今、その綺麗な顔をこわばらせ、男を睨みつけている。
「あんたたち、豊蕾に手を出したら、許さないから……!」
男に凄む彼女。だが、椅子で殴られた程度で、虞家の武人が怯むはずもなかった。三人は彼女の姿を捉える。
「よせ、鈴香!! 逃げろ!!」
叫んだ。最悪の状況だった。
椅子で殴られた男が体を振り向かせ、刀を突きだす。それは、鈴香の腹に深く刺さった。血が噴き出す。
頭が真っ白になる。いつも私に明るく接してくれた彼女が、それに……気付いていた……私を好きでいてくれていた鈴香が、刀を引き抜かれ、力なく崩れ落ちる。目の前で、私の大事なものが失われた瞬間だった。
「鈴香!!!」
私の体は飛び出していた。足は男たちに向かっていた。何も考えられなかった。男たちの近くにたどり着いたとき、私の体は横に一回転した。刀が私の周囲を猛烈に斬り刻む。男三人の胸や腹を、一度に裂いた。
彼らが絶命したかなど確かめなかった。床に倒れ伏す鈴香に駆け寄り、抱き寄せる。
「しっかりしろ!! 鈴香!! 鈴香っ!!」
いくら呼んでも、その目は、体は、動かない。腹部からは止めどなく血が流れ出るばかりだ。
「そんな……」
鈴香が、殺されてしまった。私を助けようとして。私のせいで、彼女は死んだのだ。それを確かめてしまったとき、私の中で自責の念が激しく渦巻いた。自分のせいで鈴香が死んでしまったという事実が、私の心を締め付ける。
「すまない……鈴香……」
左手で瞼を閉じさせ、髪を撫でる。血のついた手で触れたせいで、彼女の顔が汚れてしまった。鈴香を死なせて尚、彼女を汚す私。息が詰まり、震えが止まらなかった。鈴香が自身を彩るために編んだ髪も、乱れ、私の手で血に染まって……。
「豊蕾!」
はっとした。菊花様の声。顔を上げると、彼女が離れたところから駆けてきていた。鈴香を想うのは菊花様も同じだ。その顔は悲しみに満ちており、今にも泣きだしそうだった。
そうだ、菊花様を置いてきてしまったのだ。いけない、すぐに戻らなければ。そう思い、鈴香を床に寝かせて立ち上がる。菊花様の小さな歩幅では時間がかかってしまう。私が駆けていかないと。
走る菊花様の背後に、人影が迫るのを見た。敵か? まずい、早く止めないと。その者の走る速度は菊花様よりも速い。
その人影の顔が見えた。無表情で迫るその背の高い男は、睿霤。
睿霤、か。
この討ち入りに参加していた睿霤。奴は王子らを殺害し、ここへやってきたのだ。
菊花様を襲うのか? 私がその間に入るのに、間に合うか、間に合わないか、微妙な位置取りだった。
追いつかなければ……しかし、私の頭にある考えがよぎった。睿霤は味方してくれるのではないか。
昔、私が允明に襲われたときに助けに入ってきた睿霤。私が山道で転びそうになったときに体を支えた睿霤。私はわからないつもりでいたが、男だらけの虞家の屋敷で女の私が無事に暮らせていたのも、未熟だった私が暗殺稼業から無事に生還できていたのも、すべて彼が陰で手を回してくれていたからだと、なんとなくわかっていた。
今も睿霤は私たちの窮地を救いにきてくれたのではないか。そう思った。思ってしまった。
「……え……」
銀の刃。菊花様の華奢な体を包む桃色の麗らかな服、その胸から、それは突き出ていた。
時が止まったような気がした。何が起こったのだろう。理解ができない。菊花様の大きな漆黒の瞳は、私の顔を捉えたまま固まっていた。
嫌だ。
今この瞬間、菊花様は可憐なお姿を保っているではないか。優しく揺らぐ髪、かわいらしいお手から伸びた細く美しい指、小さく整ったお顔、細くしなやかな首筋、艶やかな唇、すべてがそのままだ。何も失われていない。なのになぜだ。どうしてだ。
時が動きはじめるのが、怖い。嫌だ。嘘だ、こんな現実。
それを見てから全力で地面を蹴る自分が最低で、最悪に卑しい。菊花様の名を叫んで駆け、刀が引き抜かれたところで、崩れ落ちそうな彼女の体を支えた。いつも、さっきも触れると反応を返してくれていたその体が、今は何の応答もない。いまだに感じるその温もりが、もう失われていくものだとわかってしまう。
私の襟巻を外して彼女の胸に巻き付ける。だがこの薄っぺらい布はなんの役にも立たず、布の赤にさらなる深い赤が滲み広がって、滴りをこぼした。
何度も菊花様の名を呼んだ。今日は菊花様が生誕を祝われ、宮廷に住まう人々に認められて、新たな人生を始められる日なのだ。そして私は菊花様と共に歩み続けていくつもりだったのだ。それなのに。
菊花様の小さなお口から何かがこぼれたので、咄嗟に手を添え、それを掬う。温かなそれは私の手に溜まり、指の間から流れ落ちていった。
赤。
私の手が紅で染まっている。きたない私、その手が、菊花様の鮮血で。
叫びで全身が揺れた。
すべてを思い出した。数か月前、私が元いた国で起きた出来事を。
真っ暗闇の馬車の中、私は息を荒げ、横たわっていた。冷たく埃っぽい空気が荒れた喉を通るたびに刺すような痛みが走る。床に何度も打ち付けた頭がガンガンする。吐き気もするし、苦しい。胸が痛い、息ができない。
被っていたはずの毛布はどこかにいっていて、この西方の地の寒冷な空気を直に受けていた。手探りで水袋を探すも見つからない。暴れている間にどこかへ飛ばしてしまったようだ。
唸り声を上げた。惨めなものだ。貿易街道を往く商人の用心棒をするようになってから、この冷たく乾いた空気にあてられ続け、すっかり弱ってしまった。常に熱に浮かされている。今はそれに加えて、さっき葬った盗賊の奴らとの戦闘で、額に矢をかすめ、馬の体当たりで体を地面に打ち付けられて、満身創痍だった。
このまま死んでしまえばいいのに。鈴香と菊花様を死なせた私など、生きている価値がないのだから。でも今は死ねない。一縷の望みのため、行くところがある。だがそれは誰のためでもない、私自身のための希望だ。私はなんて卑しい人間なのだろう。
「フェンレイ、戻っているノ?」
女の、甲高く発音が怪しい声。その声と同時に、馬車の中がおぼろげな光に照らされた。ランプという灯火器を手に持ち、その女、リカが入ってきたのだ。その光は異人である彼女の姿を照らす。三つ編みで一つにまとめた薄色の髪が揺れるたび、その毛先は跳ねるように動く。ぼんやりとしていて色味はわからないが、彼女の蒼い瞳だけ、かろうじて色の違いがわかった。それが私の顔を捉えているのに気づき、目をそらした。
光に照らされた馬車内は物が散乱していた。私が暴れていたせいだ。彼ら商人の品々である麻でできた商品の箱が破れたり砕けたりして床に散らばっていた。私の寝床のそばに置かれていた皿や水袋は端の方に追いやられていて、我が愛刀は抜き身のまま床に転がっていた。その惨状にばつが悪くなり、私は寝ころんだまま彼女に背を向けるしかなかった。
そんな私のそばまで寄ってきた彼女は、しゃがみこんで私の顔を覗き込む。彼女の吐息から甘い香りが漂った。
「ねえ、だいじょうブ? 額の傷、見セテ」
私の額に触れようとする彼女の手を払いのける。
「やめろ」
「……ソウ」
拒否するとリカは素直に引き下がった。そして散らばった荷物を箱に詰めなおしたりして片付け始めたようなので、私はそのまま背を向け黙っていた。
しばらくして片付けを終えたリカが、また話しかけてくる。
「ありがとうネ、フェンレイ。盗賊をやっつけてくれて、助かったワ」
「……別に」
「まだ体が悪いのに……ごめんネ」
「仕事はする。それだけだ」
「でも、あまり無理はしてほしくないワ」
この女の声は鼓膜に響く。話を終わらせたいのに、私を惑わす。
「うるさい。私に構うな。お前に何がわかる」
その一言でリカは黙った。こんなに物分かりがよかっただろうか? まあいい、これで静かになるのならそれでいい。
「……ぜんぶ、話してくれたデショ?」
間をおいてリカは声を出した。その声色は、恐る恐るであるような、もしくは微笑を含むような、とにかく儚げだった。
「話してない」
「ううん、アナタを迎えた日にぜんぶ聞いたワ。馬車の中で倒れこんだアナタは、うわごとみたいにネ、ずっと繰り返してたカラ……」
「知らない。忘れろ。お前には関係ない」
そう言うと、また沈黙が流れた。リカが深く息を吸った音が聞こえたかと思うと、そこからゆっくりと息を吐く音がした。
「ジファさまが刺サレタ。私のせいだッテ」
リカの言葉に息をのんだ。血の気が引く。頭の中がうごめく。
「必死で逃げて外に出たら、ジファさまの体はもう冷えてテ」
「……やめろ」
「お母さんの形見の髪留めと一緒に埋めてあげようとしたのに、それはお屋敷と一緒に燃えちゃったッテ」
「黙れ……!」
悪寒が走る。頭の中が千切れんばかりに捻じれる。視界が揺れ動く。
「それでアナタは、燃えているお屋敷の前で立ち尽くしていたノダカラ……」
「だまれよ!!」
体を起こし、床の刀を拾ってリカに飛び掛かった。左手で肩を掴んで押し倒す。リカの漏らした息が甘く匂った。リカの眼前に刃をかざし、馬乗りになって見下ろす。
「それ以上しゃべるな! しゃべったら殺す!」
怒りで声が震えた。刃先も小刻みに震える。過去を掘り返されたくない。思い出したくない。だから必死に蓋をしているのに、どうしてこいつは!
そのとき、唇に硬い感触を覚えた。煙管の吸い口。人肌に温まっていた。さっきまで、リカが咥えていたものだった。彼女の蒼い瞳をたたえる大きなたれ目はうっとりしたように潤んでいた。恍惚とした表情は艶っぽく、その表情には妖艶さすら感じた。
私の唇の隙間から、甘い煙が染み込んでくる。煙管の中で、薬香の煙が人体へ侵入するときをいまかいまかと待ちわびているようだった。
私は結局、これを期待していたのかもしれない。
私はそれを咥えなおし、ゆっくりと煙を吸い込む。甘美な香りとともに、口の中に苦い味が広がっていく。苦みはやがて甘さに変わり、脳髄にまで浸透していく。むせなかった。もう何度も吸っているから。
頭の中のねじれが直り、固まっていたのが解れていくような気がした。あれ以来色味が薄らいでいた視界が鮮やかさを取り戻す。リカの蒼い瞳は鮮烈さを増し、茶色の髪は燃えるように輝いた。リカの白肌はきめ細やかさを一層際立たせ、朱色の紅をひいた唇がやけに色っぽく見えた。
「フェンレイ……」
リカはくすっと笑ってから、刀の刃を避けて体を起こした。そして煙管を私の口から外すと、彼女は再び自身の口へと持っていく。リカがそれを吸う姿を、私は何度見てきただろうか。彼女の仕草を目で追ううちに、気づけば見惚れている自分がいた。刀は自然と手から離され、床に転がる。
リカはその白い手で煙管を下から支えるように持ち直すと、上を向いて深く息を吸った。肺胞が大きく膨らんでいくのがわかるくらい強く空気を取り込んでから、彼女は口を細め、ほぅと吐き出した。吐き出す息は白く霞んで見えた。赤みを帯びるふっくらとした頬と相まって、その姿は幻想的ですらあった。まるで夢の中の出来事のようで、現実感が失われていった。
もう一度大きく息を吸ったあと、彼女は目を細めて言った。
「ワタシとアナタは一緒ナノ」
さっきまで耳障りだったリカの声が、今は心地よく感じられた。彼女の声に耳を傾けているだけで心が落ち着く気がしたのだ。
「こんな現世、大キライ」
リカはそう呟き、再び煙管を咥えて煙を口に溜めた。そして口を離すと、その顔は、私の目の前に。首を傾げてぐいと顔を近づけてくる。私は動かず、そのままそれを受け入れた。私たちは唇を重ねた。彼女の口の中から流れ出る熱い空気が舌に触れると、頭が痺れるような感覚におそわれる。全身が腫れているみたいだった痛みはいつの間にか無くなっていた。彼女の舌が私の舌を撫でるように這うたびに、私は自分の中の何かが溶け出してしまうような感覚に陥る。その感覚がたまらなく心地いい。ずっとこうしていたいと思ってしまうほどに。いや、永遠にこのままでいられたらいいのにとさえ思ってしまう。罪など忘れ。鈴香や、菊花様のことも忘れ……。なんて、私は。
しばらくそうした後、私とリカは顔を離す。すると言いようもない不安感が込み上げてきた。
「リカ、私は汚い。卑しい。大切な人を死なせておきながら、私はのうのうと、こんなこと……。私なんかが、生きていていいのか?」
すると、私の頰に手が添えられた。温かく柔らかなその手は、私の頬を撫でてくれる。
「悪い子ヨ。フェンレイも、ワタシモ。でも生きるノ」
「なぜだ……なぜお前は、私自らを裂こうとした手を止めたんだ。どうしてこの苦しみを終わらせてくれないんだ」
「まだナノ。まだなのよ、フェンレイ……」
目をそらす私の体を引き寄せて、リカは耳元で囁くように言った。
「まだ、その時じゃナイ」
その言葉にひどい安心感を覚えてしまう。いつか思うとおりにこの世を去る。それは今でなくてよいのだと。
私からもリカの体を抱き返そうと手を添えるが、彼女は私を抱いたまま体を倒してきて、私はされるがままに押し倒された。そして彼女は仰向けになった私の顔の横に手をつき、上から覆いかぶさるようにして唇を近づけてくる。
「言ったデショウ? 絶望の地で、ワタシたちは死ヌッテ」
囁くリカの微かな吐息が顔にかかる。そのくすぐったさすら心地よい。
「そこに行くまで生きるノ。だから何をしてもイイノ。大事なことを忘れてもイイノ。生きるためナラ……ネ?」
意識が混濁しかけていた私は、リカの言うことを従順に受け入れていた。
「一緒に行きマショウ? 絶望の地、"モンスクリプタ"ヘ」
再び唇を重ねてからは、ただその快楽に溺れるだけだった。