女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 8話 剣舞 3
連日の剣舞の練習を経て、ついに翌日、菊花様の生誕を祝う宴を迎える夜。自室の寝台の縁に座っていた。胸の高鳴っているのがわかる。興奮で眠れそうにない。窓の外を見ると、月が雲に隠れて見えなくなっていた。それが余計に私の心をかき乱す。
部屋の扉を叩く音がした。燭台を持って扉まで歩き、開ける。蠟燭の灯りがその人物を上から照らす。
「……菊花様」
そこには寝間着姿の菊花様がいた。不安げな顔で私を見上げている。
「どうかなさいましたか?」
菊花様はもじもじとしていた。何か言いたげであるようなので、しばらく待ってみることにする。
「豊蕾……えっと……その……眠れないのです……だから……その……」
そこまで言うと俯いてしまった。私と同じだな。丁度良かった。
「お茶でも淹れましょうか」
そう言うとゆっくり顔を上げた。優しい、しかしどこか悲しげでもある微笑みを返してくれた。
「はい」
消火した後の暖炉に再び火を灯した。やかんを置き、茶器を用意する。その間、菊花様は椅子に腰掛けていた。湯を沸かしながら横目で見ると、菊花様は揺れる炎をじっとみつめていた。何を思っているのだろう。その体は少し強張って見える。
茶葉の入った急須にお湯を注ぎ入れ、蓋をして蒸らす間に、茶碗にお湯を注いで温める。
思えば、茶碗を温めるなどという気遣いの心は、ここに来て初めて知ったことだった。虞家の同胞の男に茶を淹れろと言われたときは、女扱いするなと憤ったものだ。だが今ではこうして自ら率先して動いている。もうあの頃とは、ものの考え方が違っていた。
茶碗の湯を捨て、茶を注ぐ。最後の一滴が落ち、部屋中に爽やかな香りが広がった。茶碗を菊花様に差し出す。
「ありがとうございます……」
菊花様は茶碗を手で覆い、指を温めていた。力みが見られていたその体は、次第に柔らかくなっていった。
茶の暖かさには、私も虞家の暗殺稼業の際にいくらか助けられてきたが、香りにも心安らぐ効果があるというのは、やはりここに来て初めて気づいたことだ。
菊花様は、茶のぬくもりや香りに何か縋るように、胸の前で大事そうに抱えていた。
「いい匂いですね」
「はい」
「では、いただきますね」
そう言って菊花様は口元に運び、小さく音を立てて飲んだ。そして溜まったものを吐き出すように、細く息を出す。ようやく揺れる心を置けたかのようだ。
いったい、どうしたのだろう。明日はいよいよ菊花様の生誕を祝う日だというのに……。
ここのところ、菊花様は様子がおかしかった。特に今日は、食事が喉を通らず、ほとんど残してしまったほどだったのだ。
「あの、菊花様」
意を決して声をかけた。菊花様はこちらを向く。
「お体の具合が悪いのですか?」
「いえ、大丈夫です」
消え入りそうな小さな声だった。とてもじゃないが、大丈夫とは思えない。
「本当に、どうなさったのですか。明日は菊花様の生誕祝いですよ」
「わかっています」
「何か心配事でも?」
そういうと、彼女は視線を落とし、黙ってしまった。
「私でよければ、話してください」
菊花様は俯き、また少し顔を上げては、すぐに伏せてしまうを繰り返していた。
薪が燃え、爆ぜる音が静寂を破る。やがて菊花様は茶の水面を見下ろしながら呟いた。
「……こんなこと、言ってはいけないと思うのですが……」
「構いません。なんでも仰ってください」
菊花様は大きく深呼吸すると再び話し始めた。
「……こわいのです」
「こわい? 何がでしょう」
「わたしは……これまで誕生を祝われたことがありませんでした。お母様……使用人の子であるわたしは……誰にも望まれていなかったから……」
それはこれまで菊花様が虐げられてきた理由のすべてだった。
「しかし、此度は違います。王陛下のご寵愛を受けられる王女として、皆から祝福されるはずです」
「父上がいなかったら、わたしは今、この地にはいなかったでしょう。父上には感謝しています……」
菊花様の今があるのは、やはり王のせいである一方、おかげ、とも言えるのだ。
王族内で不義の子が生まれた場合、その子は内密に殺されてもおかしくない。しかし王は菊花様を生かし、しかも王女として育てさせたのだ。そして彼女はきわめて抑制的とはなってしまったが、それでも笑顔の絶えない朗らかな性格に育った。それは生まれてしばらくは王が彼女を強く気にかけていたからではなかろうか。しかし、それが無くなるにつれ、王妃の苛烈さが際立つようになったのではないだろうか。
もし菊花様が王に愛されていなければ、菊花様はここまで生きられなかったかもしれない。
菊花様は言葉を続けた。
「でも……それでも、こわいのです。わたしは母上……王妃の子ではないのは事実なのですから……」
痛みをこらえるかのように、菊花様は顔を歪めた。普段の様子からはわからなかったが、菊花様はこのことに関してずっと悩んで苦しんできたのだろう。
「わたしは……本当はいないほうがよかったのかもしれません」
菊花様の瞳は潤んでいた。彼女の痛みが私にも感じられた気がした。思わず、その肩に手を添える。
「それは違います! 菊花様がいなければ、私はここにおりません。あなたがいるおかげで、私はここにいるのです」
「そうでしょうか……」
「はい」
「そういって、もらえると……」
「それに……! 王妃の子ではないなど、どうということではありません。本当の母君もまた、素晴らしいお方だったに違いないのだから」
「えっ……?」
菊花様の髪に触れた。後ろ髪には、就寝前だというのに、あの木彫りの髪留めがつけられていた。
「このように繊細で、優しく、暖かみのある髪留めを……まだ見ぬ我が子のために彫れるお方が、悪い母親であるわけがないではありませんか」
「……わかるの、ですか……?」
ゆっくりと顔を上げる。その澄んだ漆黒の瞳は、まっすぐ、私の目に向き合った。
「わかりますよ……」
その髪留めは、菊の花を模した柄で彫られていて、茎、葉、花弁それぞれ丁寧に彫られていた。まだ腹の中だったであろう菊花様への深い愛を感じる品なのだ。
菊花様は髪を撫でる私の手を、その小さな手で上から覆った。その手は力強く、温かい。そしてもう片方の手で自分の目元を拭った。
暖炉の灯りが、彼女の顔に星を瞬かせる。
「……わたしが生まれてすぐ亡くなったから、会ったことはないけれど……わかるのです……わたしにも、お母様は、良いひとであったと……そう思えるのですよ……」
菊花様の目から溢れる涙を見て、私の中で何かが込み上げてくるのを感じた。私もいつの間にか涙を流していた。二人とも泣いていた。
菊花様を虐げてきた王妃や王子王女らは、菊花様の本当の母君のことを悪く言っていたに違いなかった。玉英が話していた、過去に菊花様がひとり泣かれていたというのは、おそらくは、そういったことがあったせいなのだろう。
そのつらい気持ちをすべて洗い流してしまえるよう、菊花様の頭を抱き寄せ、胸に収めた。
菊花様の嗚咽が、部屋中に響き渡っていた。感情を放つかのように熱く震え鼓動するその体を抱きしめたまま、背中をさすり続けた。
初めて会った夏の日より、背が伸びられたな……そんなことをぼんやりと考えつつ、菊花様が泣き止むまでの間、私はただじっとそうしていた。
やがて、菊花様はゆっくりと体を離した。目は赤く腫れていたが、先ほどよりはいくらか落ち着いたように見えた。
「すみません……取り乱してしまいました……」
「いえ」
少し恥ずかしそうに微笑んでいる。だいぶ落ち着いてきたようだ。彼女の様子はしおらしく咲く花のようになっていた。
「ありがとうございます……おかげで、少し楽になりました」
「そう言って頂けて幸いです」
菊花様は少し笑みを浮かべると……再び近づいてきて……?
「菊花様?」
私の腕にしがみついては、頬を当て、体を私に預けてきたのだ。
「豊蕾……お願いがあります」
「なんでしょうか?」
「今日だけでいいんです……一緒に寝てくれませんか……?」
菊花様からの意外な申し出だった。いつもならこのようなことは頼まれないのだが……。まだ、おそれられているのだろうか。
「ええ、もう寝ましょう……」
そうして私たちは床についた。
私の胸元に、菊花様の頭があった。その表情は穏やかだ。私は頭を撫でながら呟く。
「菊花様……」
「……はい」
菊花様は薄く目を開き、小さく返事を返した。まだ眠りにつかれてはいなかったようだ。
「起こしてしまいましたか?」
「いいえ……豊蕾」
「はい」
逆に菊花様から話を投げかけられた。その声はまどろみの余韻が残り、穏やかで優しい。
「わたし……明日が無事に終わったら……王族として、ちゃんと意志を示せるようになりたいです……」
「意志を示す、ですか?」
「はい……わたし……許されるのなら……夫となるお方を支え……国を良い方へと導く手伝いをしていきたいです」
「そう……ですか……」
この子は、こんなにも成長されていたのか。驚きとともに、喜びを感じていた。
「わたし……今まで、母上や兄上、姉上たちに言われるままに過ごしてきました……それでよいと思っていました……。でも、このままじゃいけないって思ったのです……。わたし自身の望みを示せるように……なりたいのです……」
「そう、ですね。菊花様の言うとおりです」
そう言うと、菊花様の手が私の服を掴んだ。菊花様は俯き、私の胸元にその頭を埋めた。菊花様の体温が心地よい。その吐息も、鼓動も、全てが私を安心させてくれる。
「争いのない世の中にしないと……」
その言葉はあまりに新鮮で、とても壮大に聞こえた。
「……争いのない、世の中……」
驚いた。私たち、この地に住まう人間が当たり前のようにしている争いごとを、彼女は止めたいというのである。
「容易ではないでしょうが……もしできたら……国が統一と分裂を繰り返す現状から、抜け出せるかもしれません……」
なんて立派な考えなのだろう。続きを聞きたくて、相槌も忘れてしまう。
「……豊蕾が、他国の母子を生かしたことが、正しいといえる……そんな世の中を……」
息をのんだ。その出来事は私の引け目だった。暗殺の仕事をしていながら、か弱い母子とはいえ、他国の王族を斬り捨てられなかったのだから。
だが、菊花様はそれを責めることはなかった。そして今、逆に正しいことだと認めてくれている。
「豊蕾……優しいあなたが、わたしの誇りです……」
「……菊花様……」
ああ、この方は本当に大きくなられた。この方の傍にいられるだけでも、私は幸せ者だ。
「ありがとうございます……」
「……ふぁあ……」
「お疲れでしょう……そろそろお休みください……」
「……はい……豊蕾……」
そう掠れ気味の声で応え、私に身を寄せて、そのまま目を閉じた。その小さな体からは、安らぎが感じられた。私はその細い肩をゆっくりと抱き寄せると、菊花様は嬉しそうな顔をされ、やがて穏やかな寝顔になった。しばらくすると、すうすうと可愛らしい寝息を立て始めた。
「おやすみなさいませ」
その額に口づけをする。
菊花様の未来は明るい。そして私は菊花様とともに信頼し合いながら歩んでいける。
こんなにも喜ばしいことが、他にあるだろうか。