女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 3話 庇護 後編

 宮廷の中庭は広く、芝生が広がり、背の低い木や黄色と白の花などが植えられている花壇があった。端の方には小さな池があり、水面には蓮の葉がいくつも浮かんでいるのが見えた。それらが陽光を受けて輝く様子は美しく、まるで絵画のようであった。その中央には芝が禿げて土が見えている地面があり、王子はそこで待ち構えていた。どうやらそこが戦う場所のようだ。その周りには男たちが何人か集まって立ち話をしていたが、私と菊花ジファ様の姿を見つけると、一斉にこちらを向いた。こいつらは王子が集めたのだろうが、どう言って連れてきたのか、みな好奇の目を向けてきている。
 王子の隣に護衛の一人がいる。もう一人の護衛である睿霤ルイリョウは……壁にもたれかかって腕組みしながら、つまらなそうに視線を逸らしていた。こんな事態を作り出した元凶のくせに、なぜあいつは何もしない? 苛立ちを覚えた私は、睿霤にひとつ仕事を任せてやることにした。睿霤の目の前に私たちはたどり着いた。
「菊花様。私から離れている間は、こいつ……睿霤の近くへいてください」
「あ、はい」
「いいな、睿霤」
 きょとんとする菊花様から睿霤に視線を移して言うと、彼は頷くだけだった。
「それから、これ、預かってろ」
 私は腰紐から鞘ごと愛刀を取り外し、それを彼に突き出す。
「……世話の焼ける奴だ」
「仕方がないだろ。刀を預けられるのはお前くらいだ」
 睿霤は組んだ腕を面倒そうにゆっくり解くと、刀を受け取った。その後も、相変わらずやる気の無さそうな目で私を見るだけだ。
 睿霤を尻目に私は振り向き離れようとした。
「あの、豊蕾フェンレイ! ほんとうにわたしは大丈夫ですから、勝ってください」
 菊花様の憂わしげな声が背中越しに聞こえる。
「あなたの身が第一です」
 振り向かないまま、私は言った。
 私が勝てば、王子の求婚を拒否できる。だが、"おれの機嫌を損ねたら、菊花がどうなるか"と王子は言っていた。観衆の中で王子の面子を潰した場合、菊花様にどんな仕打ちが待っているのか。一方で私が負ければ、求婚を受け入れると同時に、睿霤の提案のせいでこの場で辱めを受けるかもしれない。実際にそんな常識外れなことはしないものと思いたいが、もしそうなれば死んだ方がマシではないか。どうすれば。良い手が浮かばないまま、王子の前に立つことになってしまった。

「逃げずに来たようだな」
「逃げても無駄ですから」
「まあいい。すぐに決着がつくからな」
 ブタガエルはニヤリと笑った。その笑みは見るだけで不快感を覚える。だがそれに構っていられないほど、私は焦りを感じていた。
 一人の男から木刀を手渡される。そして男は私と王子のちょうど真ん中あたりに立ち、審判役を買って出た。
「それでは、両者前へ」
 男が合図をすると、王子と私は前に進み出る。王子は片手で木刀を立てるようにして持ち、構えている。その腰を落とさない前のめりの姿勢を見て、私は確信した。こいつ、素人だ。私は木刀の柄を両手で握り、正眼に構える。
「始め!」
 開始の合図とともに王子はどたどたと駆けだした。摺り足もせず、大股で走ってきているため隙だらけだ。一振りで勝てる……だが、私は奴の突きに対して不必要な防御をした。木刀を右上に振り上げ、奴の木刀を弾く。すると簡単に奴の腕は上に払われ、胴が露わになった。そのまま叩けば終いだが……木刀を返し、柄で腹を突く。王子は体をくの字にして呻いた。試合の最中だというのに目をつぶって痛がっている。
「痛みに慣れていないのですか? 実戦なら、今その首を落としているところですが」
 そう声をかけると、奴は腹をさすりながら私を睨んできた。まだ戦意を失っていないようだ。
「うるさいぞ、女ごときが」
 そう言って再び突進してきた。今度は横薙ぎだ。避けた後がお粗末だなと思いつつ避ける。案の定、王子は勢い余って地面に転がった。
「立てますか?」
「くそっ……馬鹿にするな!」
 立ち上がった王子は再び突っ込んでくる。その縦斬りも簡単に避けられた。深く沈んだ姿勢からすぐに動き出せないさまを、私は剣を下ろして見下してやった。息を切らして私を睨む王子の周りで、男たちがくすくす笑っている声が聞こえる。やはり素人だったか。
「笑うな、お前ら!」
 男たちに怒鳴る王子。あまりの滑稽さに、私も口角を歪めてしまった。するとそれに気づいたのか、王子は私に向かって叫んだ。
「次は避けるな! 絶対にだ! 菊花がどうなってもいいのか!!」
「……何だと」
 脅迫めいた言葉に、思わず眉をひそめてしまう。こいつは本気で菊花様に危害を加えるつもりなのか。そう考えている私に、王子は突進してくる。
 避けたら、どうなってしまうのか? 判断が鈍った。その縦斬りを避けず、受け流しもせず、横にした木刀で真正面から受け止める。案外重い……いや、斬る直前で奴はコケて、その肥えた体の全体重が木刀に乗ってきていた! 普段力勝負をしない私は、その勢いに負けてしまう。剣は弾かれ、体勢を崩してしまい、尻餅をつくように倒れ込んでしまった。そしてすぐ立ち上がろうとしたが、目の前には奴の頭が。王子は倒れた私に覆いかぶさる形になったのである。
「おお……マジか……」
 下から上を見回して呟く王子。奴としても思わぬ形になり、戸惑っている様子だ。私は奴を押し退けようとするが、奴の体重のせいで上手くいかない。奴の荒い息遣いが私の顔にかかる。気色悪い。
「おい、どけ! いや、どいてください……!」
 つい言葉遣いを誤り訂正するが、王子は聞いていなかった。
「本当に……やるのか……? 睿霤の言った通りに……」
 目を見開きながらの呟きに、私はぞっとした。まさか本当に、このまま私の貞操を奪うつもりか。木刀を捨てた奴の手が私の胸に触れようとしている。
「ふざけるな……やめろ……!」
 その手首を掴んで必死に抵抗するが、王子は私の言葉など聞いていない。力がこもっていて、離すとすぐに胸に触れてしまいそうだ。この瀬戸際に私の緊張は高まり、心臓が強く鼓動するのを感じた。
 見ていた男どもが駆けつけてくる。助けてくれるのかと思いきや、少し離れた所で横から覗こうとする者ばかりであった。助けようという気持ちは無いのか! そんな時、私の頭の上の方からか弱い声が聞こえた。
「兄上! おやめください!」
 菊花様だ。離れたところから走りながら叫んでいるのがわかる。小さな体で懸命に声を出していた。
「兄上! その……あの……」
 近くまで来た菊花様が何かを訴えようと口を開くも、言葉が出てこない様子だった。その間にも王子は、息を荒らげ目を見開きながら、私が掴むその手に力を込め続けている。何にも目をくれず、夢中で私の体に触れようとする王子は誰の言葉も耳に入らないようだった。
「わ、わたしは……どうなっても良いですから……」
「菊花様?」
「どんな目にあってもいいです……だから……もう、やめてあげてください……」
 菊花様は泣きそうになりながら、懇願するように言った。なんということだ。仕えたばかりの主人にこんなことまで言わせるなんて。情けない。私はなぜ自身を犠牲にしてでもこの人を守らなかったのか。私はなんて愚かなんだ。悔しさに歯を食いしばる。
 その時だった。顔の横で、矢が刺さるような固い音が響いて、砂が散った。身が竦み、上の王子も一瞬怯んだ。何が起こったのかわからなかった。横目で音の方を見ると、見覚えのある……私の愛刀の鞘が、地面に突き立っていた。それを持つ人物は……。
「……睿霤」
 思わず声に出してしまった。彼は私が預けていた愛刀の鞘の先を地面に叩きつけたのである。王子の手はいつの間にか力が抜けて震えていた。
「る、るる睿霤。なんだよ、お前が言う通りに、おれは……」
「やめておけ」
 見上げる王子に、睿霤はさっきまでの無気力な口調とは違う、厳しい口調で言った。その声色には怒気が籠っているように感じられた。だが、そもそも王子に私を辱めてはと提案したのは睿霤だから、怯える王子のこの返事ももっともではあるのだが。
「なな、なんで……」
 そういう王子に、睿霤は顎で右の向こう側を指し示す。そこには、十人程だろうか、鎧を着た兵士のような者たちがいた。おそらく王宮の兵士だろう。そしてその中央には、高い身分を示す黄色の服に身を包んだ人物がいるのが見えた。彼の服飾は豪壮で、黄金の冠をかぶっている。顔には白の混じった口髭、顎髭が蓄えられており、その目は優しげだ。歳は、ユイ家の長と同じく五十は越えているように思えたが、長と違って肌は健康的であり、血色は良かった。
「父上……」
 菊花様の言葉に、私は納得した。あのお方が国王なのだ。
「父上だって!?」
 王子は慌てて私から飛び退いた。その顔は青ざめており、汗をかき、震えていた。先ほどまでの高圧的な態度はもう感じられないほどに萎縮していた。どうやらあの人物が誰なのか理解したようだ。周りの男たちもみな一斉に膝をつき、頭を下げる。

「お前もさっさと跪いたらどうだ」
 地面に横たわる私に睿霤は嫌みったらしく言った。さっきは王子を止めに入ってくれたというのに、結局こうなのか。
「言われなくても」
 体を起こそうとするが、うまく力が入らずによろけてしまう。王子にあんな事をされ、少しは心がざわめいているのかもれない。そんな様子を見かねてか、睿霤は舌打ちをした。こいつ、少しくらいは心配してくれてもいいのではないか。
「豊蕾、大丈夫ですか?」
 すると菊花様が駆け寄ってきて、手を差し伸べてくれた。その手を取り、立ち上がる。
「ありがとうございます、大丈夫です」
「そうですか。よかったです」
 彼女は微笑んでそう言った。彼女の手は柔らかく、暖かかった。その温もりは私の心を落ち着かせてくれる。そのとき、睿霤はさりげなくこちらに伸ばしていた手をゆっくりと引っ込めた。そして、私と目が合うと、奴は視線を逸らした。

 跪く私たちの元へ、王陛下たち御一行は歩み寄った。そして王はしゃがみ込み、私と視線を合わせた。優しい顔だ。
「大丈夫かの?」
 王の声は、その歳にしては張りがあり若々しかった。威厳ある雰囲気の中に優しさがある不思議な声だ。そしてその表情は、とても穏やかである。
「はい、なんとか」
「そうか……それは何よりじゃ」
 そう言って微笑む姿はどこか可愛らしさもあった。もし荘厳な服と周囲の衛兵を取り除いたとしたら、その威厳も消え去ってしまうかもしれない。
「見ておったぞ。見事な身のこなしじゃった。手加減しなければ、あんな風にはならないじゃろうて」
 そう言って立ち上がると、王はその息子、王子の方を見た。
「のう」
 顔を引きつらせながら、王子は頷く。王が息子を見る目は厳しかった。
「お前は何をしておるのじゃ。前に妃の話をしてから、お前は女に興味を持つようになったが、まさかこのようなことになろうとは」
「ち、違う! これはこの女が……いや睿霤が……」
 王子は私たちを指さしながら反論の弁を探して狼狽えていたが、何も言えず口を噤んでしまう。
「言い訳をするでない。まったく……」
 王はため息をつくと、背を向けて黙り込んだ。王子が王に咎められたことからすると、模擬試合は中止だな。あとは王子にどんな罰が下るのか。周りの者たちと同じように、私は王の言葉を待つ。
「……試合再開じゃ」
「……は?」
 その言葉に声を漏らしたのは王子。私も呆気に取られてしまった。
「聞こえなんだか? 試合を続行すると言ったんじゃ」
「え……何で……」
 王が振り返る。その顔はいたずらっぽく笑っていた。およそ王らしくない表情だ。
「はやく木刀を拾うのじゃ。それからお主……」
「豊蕾です」
 名乗る私に、王は頷いた。そして続ける。
「豊蕾よ、次からは手加減無用じゃ。ああ、殺めてはならんぞ」
 再び顔を綻ばせ、冗談交じりに言う。この王は、なんて軽薄な雰囲気を醸しているのか。
 私が立ち上がると、王は後ろの腰に手を組みながら、みずから広場の中央近くまで歩いていく。さっき審判をしていた男が近づいていくと、王は手を上げて制した。なんと、王がその役をするつもりらしい。いったい何を考えているのかさっぱりわからない人だ。王子も困惑した様子のまま木刀を拾って位置につく。
「よし、両者準備は良いかの?」
 王の問いに私たちは頷きで返す。それを見て王は満足そうに笑った。本当に何を考えているのだろうか。とにかく掛け声を待つ。
「では、今からじゃ。自由にやるがよい」
 掛け声というにはあまりに素っ頓狂な言葉に拍子抜けしてしまうが、これが合図のようだから仕方ない。一太刀浴びせて終わらせよう。そう思って踏み込むと、王子はたじろいだ。構うものか。奴が立てている木刀の横から振りかぶって胴に軽く当てた。これで終いだ。木刀を下げると、王子は悔しさと同時に早く終わらせたいとでも言わんばかりの硬い表情を浮かべて目を逸らした。一応互いに納得したようなので、王の方を見ると……。
「見事じゃな。もっとやれい」
「はあ!?」
 王の言葉に大きな声を上げたのは王子だった。信じられないといった様子で固まっている。
「浅かったですか?」
「そうではない。まあ、もうちょっと強くしてやっても構わんがの」
「はあ……」
「豊蕾よ。存分にやれい」
 そのいたずらな笑顔で気が付いた。そうか……これは、私にとっての仕返しの機会であり、王子にとっての罰でもあるのだ。王の言葉でようやく理解できた。ならば。
「……いいんですね」
 確認のつもりで発した言葉に王は頷いた。私はそれを了解として受け取った。王子の方に向き直り、構え直す。
「な、なんだよお前、別にもう終わりにしてやっても……」
「黙れ」
 王子を怯ませる。もう言葉遣いなどどうでもいい。私の怒りはもはや頂点に達しようとしていた。こいつのせいで、私はどれほど屈辱的な思いを味わったことか。
「私がこれまで屠ってきた男共の数、知りたいか」
「ほ、ほふっ……」
「どう斬りこんで屠ってきたか、その身で味わわせてやる」
 王子の顔がみるみるうちに青ざめて行った。その様子を見て、笑いが込み上げてくる。その顔が見たかった。
「逃がすか!」
 後ずさる王子へ向かって地面を蹴る。まずは右脇へ。反応すらできない王子に木刀はやすやすと当たる。奴は弱々しい唸り声を上げた。これで終わりではない。体を捻り、左脇に一撃。王子はよろめき、尻餅をついた。
「どうした、来い!」
 そう叫ぶと、王子は顔を上げて私の脇の方を見ていた。どうやら王の顔色を窺っているようだが、すぐにこちらに向き直した。その顔は、絶望に打ちひしがれた風だ。王が示した態度が、奴にとって無情なものであったことがよくわかった。王子が震えながらも立ち上がるのを待ってから、私は再度地面を蹴った。次はどこに打とうか。まあ、首と喉は勘弁してやろう。そう考えながら奴の木刀を弾き、その腹を打った。

***

 翌日の日中、書庫の前で、また睿霤に出くわした。昨日と同じように、菊花様は一人で書庫の中へ入っていって、睿霤と二人になった。別にこいつとは話をしたくないと、菊花様には言っておくべきだったな。というか……。
「お前、なんで今日もこんなところに立っているんだ」
「昨日話した通りだ。護衛の仕事など、ひどく退屈でやっていられん」
「いや、だが第一王子の護衛に任命されたばかりだろ。ブタガエ……第三王子の護衛なんかとは比べ物にならないくらい大事な仕事じゃないのか?」
 第一王子は次の王位を継ぐものと目されており、四人の護衛がつけられている重要人物だ。昨日まで第三王子の護衛だった睿霤は、第三王子が醜態を晒したのを機に、王に対しその立場を返上したのだ。すると王は新たに睿霤を第一王子の五人目の護衛に任命した。本来それは名誉なことであり、喜ぶべきことであるはずだが、こいつはむしろ面倒臭そうにしているのだった。
「既に大勢の護衛がいるのだ。少しくらい姿を消しても問題ない」
「いや……まあいい」
 そんな言い分に納得はできないが、それより。
「昨日は、わざと私と第三王子を中庭へ行かせたのか?」
「そうだ」
 悪びれもせずに即答するものだから腹が立った。睿霤のせいで、私はあのブタガエルに体を触られかけたのだ。だが、そこに王が現れたことで、結果的に第三王子からの求婚を回避できたのも事実である。それに、中庭へ行く前に睿霤は菊花様に伝えていたそうだ。”悪いようにはしない”と。
「私を助けるためだったのか? なぜそんなことを」
「あのまま、あのブタガエルとまぐわっていた方が良かったか? それならそれで、俺は一向にかまわんのだが」
 そう言って鼻を鳴らす。やはりこいつは嫌いだ。
「そんなわけないだろう」
「まあ、たまたま王が通りかかっただけのことよ」
 確かに、もし王がいなければと思うとぞっとした。睿霤は王がそこに来ることを知っていたんじゃないかという考えが頭によぎったが、そんな機密情報を知っているわけはないと思い直した。
「一応、礼を言う。偶然とはいえお前のお陰で助かったからな」
 そう言うと、奴は喉の奥で笑い声を鳴らす。
「なに、お前が奴の子を孕んで、我ら虞家の名が汚されるのを防いだまでだ」
「やめろ、気味が悪い!」
 あまりの嫌悪感に鳥肌が立ち、思わず腕を擦った。奴はそんな私を見て笑う。本当に嫌な奴だ。
 第三王子は私を妃にすると言っていたが、実際には庶民の私を正式な妃として迎えるなんて不可能で、あいつは単に女が欲しかっただけだ。そして庶民の女……私では決して無い……に子供ができれば、当人の女は追い出されるし、虞家の一員がそんな面倒事を起こしたとなれば、王家との関係にも亀裂が入ることだろう。睿霤はそれを防いだと言いたいのだ。それにしたって、そんな言い方は無いだろう!

 息を吐いて心を落ち着かせていると、書庫の中から足音が聞こえてきた。顔を上げると、扉から顔を出した菊花様がこちらを見ていた。
「お話は済みましたか?」
「ええ、もう終わりました」
 とっとと睿霤の元から立ち去りたかったが、菊花様は睿霤のそばへ歩み寄り、頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。何度お礼を言っても足りません」
 菊花様は書庫に入る前にも睿霤に礼の言葉をかけていたのだが、それでも足りないらしい。
「いえ」
 それに対して睿霤はただ一言だけ返して顔を背けた。まったく愛想のない男だ。
「それでは失礼いたします」
 そう言い残して、私たちはその場を後にしようとした。
「毒見の任、そやつが解いてやったのだから、謝礼でもしておいては」
 背後から睿霤の声。菊花様への言葉らしい。私と菊花様は立ち止まって振り返った。
 昨日あの後、王からの詫びとして、望むものをひとつ私に与えるという提案があった。私は迷わず菊花様が毒見役をしているのをやめさせて欲しいと願った。それを聞いた王はひどく驚いていたようだったが、その願いを受け入れてくれた。どうも、王は菊花様が毎日毒見をしているというのを知らなかったようである。そして今日、さっそくそれが叶えられたというわけだ。
「はい、豊蕾には感謝しなければなりません。新たに任を担った使用人の方々には、申し訳ありませんが……」
「気に病むことはありません。皆、菊花様のために働けることを誇りに思っているのです」
 新たに毒見をすることになった使用人らへの哀れみの顔を見せる菊花様に、私はそう言った。実際、彼らは喜んで引き受けている。使用人たちは皆、菊花様が王妃と王女らに毒見を強要されていたことに内心腹を立てていたのだから。
「……そうでしょうか……そうですよね」
 彼女は自分に言い聞かせるように小さく呟き、頷いた。その表情からは陰りが消えたように見えたので安心した。

 そのやり取りの最中に、睿霤はいつの間にか私のそばまで歩いてきていた。顔を近づけられ、ぎょっとしてしまう。すると彼は私の耳元で囁いた。その一言を、私は理解することができなかった。睿霤は離れ、振り返って歩いていく。
「ではな」
「お前、どういう……」
 声をかけるが、彼はそのまま去っていった。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ、何でもありません」
 不思議そうに見つめる菊花様をごまかして、私たちは歩き出した。

 睿霤、いったいどういう意味なのだ。それが、王家に忠誠を誓う我ら虞家の言葉なのか?
 ”王族とは深く関わるな”


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