女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 6話 意志 後編
中庭の禿げた地面の上で、蓮玉様の護衛の男と対峙する。ここは夏に龍翔と模擬試合をしたのと同じ場所だ。庭の草花は秋の色に変わりつつある。椅子に腰かけた二人の王女、蓮玉様、そして菊花様が、黄や白の花に彩られ、秋色に華やいで見える。
椅子の肘掛けに手を置き、ただじっとこちらを見ている蓮玉様の横で、菊花様は膝の上で拳を軽く握りながら、目を伏せていた。
「では二人とも、用意はいいかしら?……ああ、あんたが勝ったらどうするか、決めてなかったわね」
蓮玉様は護衛の男から視線を投げかけられて、思い出したように言った。
「そうね。金でもいいわよ。あんたが奥さんとお子さんのところに早く戻りたいのなら、それが一番いいでしょ」
それを聞いた男は、深く頭を下げた。頭を上げて見えた顔には、素直な喜びの色が浮かんでいる。無口だが、感情は露わにする人のようだ。
「勝ったら、よ? 本気で戦わなきゃ、許さないからね」
蓮玉様が釘を刺した直後、男は木刀を両手で握りしめた。やる気満々のようだ。
菊花様は俯きがちのままこちらの方をちらりと見たが、私の顔は見てくれない。
私が勝てば、私は王子の側近へ鞍替えが可能となり、出兵の際には同行が許されるという。それは剣の道を志す私にとっては望ましいことかもしれない。
しかしそうなれば、菊花様の元を離れることとなるだろう。それは嫌だ。
菊花様にとっては、どうなのか。側近、侍女としては未熟な私の代わりとなる人物などいくらでもいる。私は、彼女がそう望むなら、勝って身を引くしか……。
「待ってあげてるんだけど! いいかげん始めたら?」
蓮玉様の怒声で我に返る。いけない、集中しなければ。
「私は豊蕾。貴殿は?」
「保星」
初めて聞いた彼の声は低く、興奮のせいか少し震えていた。力強さを感じる風貌の彼は、顔は素朴だが、太い眉の下にある丸目から放たれる眼光からは、歴戦の兵士のような気迫を感じさせる。
木刀を右手で掲げる。保星が両手で持つ木刀の先端に、こちらの切っ先を合わせ、互いに距離を取った。
「いいわね? じゃあ、はじめっ」
蓮玉様の合図とともに、摺り足で半歩程近づいた。
保星はその場で、足を地につけたまま、中段の構えを維持していた。
私も動きを止め、様子を見る。動かない。少し離れると、向こうは摺り足で近づき、間合いを維持してきた。
基礎のしみ込んだ、真面目な闘い方だ。
未熟者の型にはまった動きは、速さに重きを置いた私にとってはカモ同然だ。だが、王族の側近として抜擢されるような熟練者が行うそれとなれば、話は別。
保星の速い踏み込みと縦振り。合わせてみせるぞ。木刀を横から当てる。硬い! 弾く力を咄嗟に逃し、体を横に逸らす。
私の反応を見てか、保星はすぐに姿勢を戻していた。なるほど、隙のない牽制だ。基礎を磨き上げたその動きは無駄がなく、読めても弾けないし隙を突けない。
この一振りだけでわかった。強敵だ。
攻撃を誘おうと下手に動けば、刺すような一撃を合わせられかねない。かといって攻めに力を注いだところで、この筋力の差では容易に弾かれ反撃を食らうだろう。
様子を伺っていると再び、保星が仕掛けてきた。今度は木刀を持つ手を狙う右からの振り。瞬間、先程の硬い感触が頭をよぎる。一歩下がった。弾こうとして逆に弾かれてしまうからと。
空を打つ彼の木刀はすぐに切っ先を上げた。無理もせず、足を止めることもない。守りも攻めも無駄がない。
防戦一方となり、私の体力は削られていく。このままでは負けてしまう……仕方ない。
縦振りが来る。体を右に思い切り捻った。今度は絶対に弾いてやる。賭けだった。
保星の速い振りに、目一杯の力を込めた木刀を右横からぶつけた。手から胴まで衝撃が伝わる。保星の木刀は左に逸れた。よし、木刀を返し、左からの横薙ぎ。決める!
乾いた音。手に強い反動。
「な……」
私の攻撃を保星は木刀で防いでいた。弾き切れなかったのか。彼は木刀を下に向けて胴を守ったのだ。そして私の腕は木刀と共に上方へ押し上げられる。保星は振り上げた木刀を、そのまま振り下ろす。防げない!
一か八か。木刀を持っていかれる方向にあえて身を流す。地面を蹴って体を傾けると、服の袖を保星の木刀が掻いた。そのまま横に転がって、すぐに立ち上がる。
ギリギリだった。避けられたのは奇跡に近い。息が荒い私に対し、保星は少しも乱れていなかった。
狙いどおり弾きに行けたのに失敗した。どうする? 勝ち目はあるのか?
このまま負けてしまえばいいのか? そうすれば、保星は金を貰って家族の元へ帰れるし、私はこれまで通り、菊花様の元に居続けられる。誰も損はしないではないか。むしろ得ばかりじゃないか? 今回は、強者に胸を借りたということにして、次に活かせばいい。でも、本当にそれでいいのか?
そう考えているうちにも、保星はじりじりと距離を詰めてくる。その顔は興奮気味だ。彼の脳裏には、間近に迫った妻と子との再会のときが思い浮かべられているのだろう。
何か無いか? 彼から隙を作り出す方法。不利な状況を一変させる、なにか。
ふと、あいつの剣を振るう姿が思い起こされた。
嘲るような立ち振る舞い。獲物を狙うかのような眼光。
「なに? 降参?」
蓮玉様が声を上げた。私の様子を見てのことだ。保星も訝し気な顔をして私を見ていた。
私は木刀を右に垂らすように持っていた。笑ってしまった。あいつのことを思い出し、あの腹立たしい笑いに同調してしまったのだ。
保星は目を見開く驚きの顔を見せた。この反応。真面目な人だ。あいつ……睿霤とは、やはり正反対。
「いいぞ。打ってみろ、保星。遠慮はいらない」
木刀を垂らしながら言い放った。だが保星は動かない。
「どうした? 来い」
挑発するように言ってみたものの、保星の表情は変わらない。警戒しているのだろうか。
こちらは明らかに不利な姿勢を晒している。私の左側はがら空きで、まず防げる恰好ではない。それでも保星は飛び掛かることなくにじり寄ってくる。
距離が詰まってきたところで彼は一振り仕掛けてきた。ここでひとつ見せてやる。
ひらり、体を横に回転させながら避けた。正面を向いた時に見えた保星の顔は、困惑に満ちていた。
わざわざ必要もないのに背を向ける私の行動を、彼は理解できないようだ。無理もないことだが。
私は木刀を右前に垂らし続ける。左ががら空き、攻める姿勢でもない私の姿を見ても、保星は攻めてこない。ずいぶん慎重だな。
一歩踏み出す。保星はたまらずといった感じで木刀を突きかけるので、寸前で体を反らす。胸元で風を切る音がした。今度は横薙ぎだ。一歩下がって避ける。
「さあ来い。妻と子が待っているんだろう」
臆病さをはらんだ振りしか出せない彼を煽る。その顔は焦ったように歪んでいた。
保星がいくら手堅き剣士といえど、必ず隙を見出せるはずだ。私は確信していた。
寸前で躱すなど出来ないだろうと思っていた。彼の振りは速く、正確だからだ。だが、やってみれば、なんてことはない。生真面目な彼の攻撃を見切るのは簡単だ。
同じことを二度繰り返すと保星は手を止めた。別の手を考えているようだ。仕上げだ。
「そろそろ疲れたな、保星。私は貴殿に同情している。あの気が強いばかりの姫のそばにいるより、家族の元へ帰る方がよいのではないか?」
小声で言いながら、右を向いた。木刀を持たない左半身を、保星に晒す。
保星から漏れる呻き。良いごちそうだろう。彼の脳裏には、妻と子の姿が思い浮かんでいるに違いない。もうひと押しだ。
不意に、という感じで、保星とは反対の方に顔を向けて見せた。私の視界から保星が消える。
耳を澄ませた。地面を蹴る音。彼は誘いに乗ったようだ。私の左側に飛び込んできている。
左脇腹、左脚に力を込めた。傍から見てもわからぬよう、素早く、静かに。しかし、力強く。
地面を擦る音。保星が一歩、二歩と近づいてくる。彼の攻撃は早い。私に木刀が振り下ろされるまでの猶予はほとんどない。
それでも私は、彼のこれまでの動きを思い出しながら、ギリギリまで待った。
今、保星が一つの踏み込みで私を打てる位置に来た。ここだ。
左ひざを一瞬曲げ、地面を前に蹴る。左側に込めた力を解放。
この刹那、保星は木刀を振り上げ、素早い振りを私に放ってきていることだろう。木刀はそのまま私の体に打ち付けられ、自身は褒美を得ると、彼はそう確信している筈だ。
そうはならない。貴殿は速い。だが、私はもっと疾い。
右足を後ろに出し、地面を突く。体を全力で右に捻る。地面を蹴る左足を地面から離し、勢いのまま旋回する。
右手の木刀が空を裂く。轟く風音。視界が横に流れる。頭にかかる重圧。
体が半周したところで、左足を地面に着き、思い切り踏み込む。
手に硬い手ごたえを感じるとともに、鈍い音が鳴り響いた。次いで、呻き声。
私の木刀が、保星の脇腹を捉えていた。
彼の眼前に掲げられる木刀が、手からするりと抜け落ちていく。そして、そのままゆっくりと膝から崩れ落ちると、うつ伏せに倒れてしまった。
しまった、やりすぎた。仰向けに寝かせて保星の呼吸を確認する。よかった、気絶しているだけだ。
過去に睿霤が見せた戦法……油断させての不意打ち。保星に隙を作らせるには、これしかないと思ったのだ。
少々姑息な手段ではあったが、左側に届く迅速な回転斬りは、これまで私が疾きを重んじ、鍛えてきたからこその技だ。私の実力で得た勝利ということでいいだろうか?
「ちょっと……!」
蓮玉様が駆けつけてくる。怒られるのかと思ったが、私に見向きもせず、保星の元へと駆け寄る。
「起きて! しっかりしなさい!」
彼女が彼を揺さぶる。すると、保星の顔が少し強張った。意識を取りもどしたようで、ゆっくりと瞼を開ける。
蓮玉様は微かに笑みを浮かべたように見えたが、咳払いをひとつすると、すぐに厳しい顔つきに戻った。
「な、なさけない。大丈夫ならさっさと立ちなさい!」
そう言われ、保星はふらふらと立ち上がる。蓮玉様はため息をついた。口調は厳しいが、彼を本気で心配しているようだった。
蓮玉様についてくるように、菊花様が歩いてきていた。私から数歩手前で立ち止まる。
「菊花様」
菊花様は微笑んでいた。ただ、その笑みは素直なものじゃない。私にはそう思えた。
「豊蕾……」
そう呟いて、黙ってしまったが、すぐに目を細めて、言葉を継いだ。
「おめでとうございます。これで、お望みのとおり、戦場でのお仕事ができますね」
「それは……」
そうだった。蓮玉様から、これに勝てばそのように、と約束されていたのだった。
「あちらでもお体を大切にしてくださいね。豊蕾なら、きっとご活躍できます。どうか、頑張ってください」
励ましの言葉が、つらい。菊花様は、私などいらないというのか。
「菊花」
そのとき蓮玉様が横から口を出した。腰に手を当て、厳しい顔をしていた。
「この前言っていた話と違うじゃない。どうして豊蕾を手放そうとするの?」
その口調は厳しいものだった。菊花様は固まってしまう。
「え、あの」
「確かに、わたしが進めた話よ。でもね、豊蕾の主人であるあなたにだって決める権利はあるのよ?」
「はい……」
「菊花の望むように、していいの」
蓮玉様の声色は徐々に諭すようなものになっていったが、菊花様は俯いてしまい、地面をじっと見つめていた。
「わたしは……豊蕾の望む通りに……」
「私は、戦場など望んではいません! ですからこのままに……」
「あんたが決めることじゃないの」
口を挟む私を蓮玉様は一蹴した。
「菊花、あなたがどうしたいのか。あなたの意志で決めるべきことなのよ」
蓮玉様はそう言って、菊花様の顔を覗き込んだ。だが菊花様は黙ったままだ。
「もう。何のために、ここまでしてるんだか」
ため息を吐いた蓮玉様が、私の後ろに回る。すると、背中を押され……?
「わ……」
菊花様のそばに立たされる。菊花様は、その大きな目を丸くして、私の顔を見上げていた。
「ふたりで話し合いなさい。ほら」
「ほ、ほらって」
「早く!」
蓮玉様が私たちの間で言い放つと、少し離れ、腰に両手を当てた。
日が傾きかけている。私たちの間に、静かな風が吹いた。
菊花様がすこし口を開いてから、ゆっくりと言葉を発した。
「豊蕾……豊蕾は、剣士だから……戦場に行きたいのですよね。豊蕾は、頑張って試合に勝って、その権利を得られたのですから……それに報いてあげなくてはいけませんものね」
眉尻の下がった笑顔に胸が痛んだ。
「いいえ、違います。戦場には行きたくありません」
「良いのですよ、無理をなさらないで。豊蕾は優しいですから、きっとわたしに気を遣ってくれているのですよね。でも、わたしは平気です。あなたが剣士として務めを果たせるのなら、それで……」
「……菊花様はどうなんだ」
口をついて出た言葉が、菊花様の言葉を遮ってしまう。
「未熟な私などより、熟練の側近や侍女がついたほうが菊花様にとっていいんじゃないか。そう思って、私は保星殿に戦いを挑みました」
「……豊蕾?」
視界が滲んでいた。頬を熱いものが伝う。
「菊花様がこの手合わせを止めないのだから、そう思うに決まっているじゃないですか。負ければ菊花様を裏切ることになる。勝ってあなたの元を去るべきなんだと」
「豊蕾……そのようなことを……」
「菊花様。あなたはどう思っているのですか」
歪む視界に菊花様の漆黒の瞳を収める。だがその目は横に逸らされてしまった。
「わ、わたしのことは……」
「私は去りたくなどない!」
小さな両肩を押さえていた。漆黒の瞳はびくりと動き、こちらに向けられる。
「あなたも本心を言ってください。私にはわかる。菊花様に初めてお会いしたときの笑顔は作り物だった。あなたは本心を隠すことに慣れている。でも本当の笑顔もまた、私は見た。本心をさらけ出していいんです。私はあの笑顔がまた見たい」
「豊蕾……。わたし、は……」
「さっきの笑顔は作り物だった。だから、本心を言ってください」
両肩を掴む手に力をこめる。怖かったが、菊花様を信じて、私は待った。
「わたしは……」
両眼から零れる涙が、菊花様の頬を濡らしていく。
「わたしも……豊蕾と、いっしょにいたいです」
それを聞いた瞬間、菊花様を思い切り抱きしめていた。笑顔じゃないのにわかった。間違いなく本心だ。
「よかった……。一緒にいましょう、菊花様」
「豊蕾……ごめんなさい。わたしのせいですね。あなたを振り回し、傷つけて……」
「いいんです。いいんです……」
燃えるような夕日の中、私はその小さな体の温もりを確かめ続けた。
少女の咳払いが不意に届く。
「いつまでくっついているの」
そうだ、蓮玉様が見ているんだった。慌てて体を離す。菊花様の顔が真っ赤に染まった。
「こ、これはその」
「まあ、でも話がついたならいいわ。わたしがけしかけたんだから。菊花が意志を示さないと大変なことになるようにね」
「……は?」
「はじめから本音で話していれば、お茶を飲んでる間に話は済んでたけれど。保星ともやり合うことだってなかった」
「つまり、それは、私を戦場に行かせるなどというのは、本気ではなかったと……」
「当たり前じゃない。菊花は豊蕾にずっと側近でいてほしいって、前に言ってたもの」
「あ、姉上、そのようなことを言うのはおやめください!」
「さっき自分で言ったじゃない」
「姉上!」
顔を手で覆う菊花様に、蓮玉様はいたずらな笑顔を向けていた。まったく、悪い人だ。菊花様の本心を引き出すために、わざわざこんなことまで。
だが、おかげで、うわべではない菊花様の本心を聞けた。私はこれからも、彼女のそばにいられる。
「……ありがとうございます、蓮玉様」
「礼はいいのよ。面白いものを見られたし。保星に滅多打ちにされるどころか、ああも勝ってしまうとはね」
「はあ……」
「それに、さっきの菊花とのアレ。愛の告白っていうの?」
「……はあ!?」
今度は私に意地悪な顔を向けてくる。顔が熱い!
「ち、ちが……!」
「さて、と。それじゃ、わたしは帰るわ」
蓮玉様は長い黒髪をなびかせながら踵を返すと、そのまま歩き出した。
「保星、いつまでいじけているの。わたしが悪かったから、ほら」
中庭の隅で独り両膝を抱いて座っていた保星を蓮玉様が立たせ、共に去っていく。私はやり場のない感情を胸に、その場に佇んでいた。
「あの、豊蕾」
その声がして、私ははっと我に返る。菊花様が私の袖をつまみながら、心配そうに顔を覗き込んでいた。
「あ、いや、蓮玉様は変なことをいいますね。はは……」
「これからも、よろしくお願いいたします」
菊花様は私に向けて、頭を深く下げた。頬を掻いていた指を止める。
「……ええ。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
私も深々と頭を下げた。頭を上げると、菊花様も顔を上げていた。綺麗な笑顔。そうだ、これこそが、彼女の本当の笑顔だ。
日が傾き、影が長く伸びる。菊花様と共に、その中を歩く。
日が沈んでしまう前に、もう一度、私は彼女に声をかけようと思う。私は知っていきたいのだ。彼女の意志を。
笑顔だけじゃない、菊花様の色々な表情も。これからはもっと、知りたいのだ。