女剣士の絶望行 二章 母殺しの煙美人 第3話 麻煙
私は宮廷の裏、木々の生い茂る庭にいた。優しく照りつける陽光に、緑の香る穏やかな風。机と椅子を置き茶会をしていた。目の前に座るのは、黒髪の髪を細かく編んだ鈴香と、小柄で肩くらいまでの栗色の髪が優しくおろされた、菊花様。
「豊蕾の淹れてくれるお茶は、いつもおいしいです」
「ホントですよね、菊花様。豊蕾、もう一杯ほしいな」
二人とも茶を飲んで微笑んでくれている。私はそれが何よりも嬉しい。剣しか知らなかった私に、こういった喜びを教えてくれたのはこの二人だった。私は、二人と過ごす日々が好きだ。
「菊花様も、もう一杯いかがですか?」
「はい、ありがとうございます」
「豊蕾、あたしも」
「鈴香、おまえは飲むのが早すぎるぞ。もっと味わって飲め」
「わかってるよ。豊蕾がこれまで頑張ってきた証だもんね、この美味しいお茶は。それはもう、菊花様のために、菊花様のためにって、何度も淹れなおして」
「そうなのですか?」
「ば、バカなことを言うな、鈴香」
菊花様の大きな漆黒の瞳に見つめられて、私は顔を赤くした。菊花様の視線にいたたまれなくなり、空になった菊花様の茶碗を見る。
「菊花様、今おかわりを……」
「豊蕾」
菊花様が私を呼び、彼女は私に微笑みを向けてくれていた。その美しい目じりに小さな皺が寄り、頬に朱がさしている。菊花様はとても幸せそうだ。私は胸がいっぱいになった。
「はい、なんでしょうか?」
「いつもありがとうございます。わたしは優しい豊蕾といられて、とても幸せです。豊蕾がここに来るまでのわたしは、不安なときもそれを隠して笑っていました。でも、今は違います。心からしあわせだと、そう言えるのです」
「菊花様……」
「だから、これからもずっとそばにいてくださいね」
菊花様の微笑みが私を見つめる。ああ、なんて幸せなんだろう。私もこの上なく幸福な気持ちに包まれながら、頷いた。
「……はい、もちろんです」
その瞬間、急に胸が締め付けられる。苦しみが喉元から這い上がる。暖かな光景が、一気に冷めたように色を退かせた。
フェンレイはいつのまにか、草のような重い香りを鼻腔に感じながら、ぶつぶつと呟いていた。
「私は優しくなんかない……あのときだって……私が隣国の母子を斬らなかったのだって、逃げただけだったんだ。そのあと他の奴が母子を斬りに行くのを私は、見ないふりをして……」
「うん、うん」
フェンレイが寝台の上でひとりでに喋るのを、リカが頷いて聞いていた。
「私がそんなろくでもない奴だったから、菊花様と鈴香は……。私は二人と一緒にいてはいけなかったんだ……」フェンレイの意思とは関係なく、呟きは彼女の口から垂れ流されていた。
「つらかったわね、フェンレイ。つらかったわね……」否定も肯定もすることなく、リカはフェンレイの頭を抱き続けた。
やがてフェンレイは頭がぼんやりする感覚を覚えた。流れ出ていた呟きは止まっていた。依然として自身の体が自分のものではないような感覚が続いた。
リカはフェンレイのすぐそば、寝台のへりに腰掛けている。ぼんやりとした目でその裸の背中を見ていた。そして周囲には、白いもやが掛かっている。それはゆっくりと流れ、彼女を包むようにまとわりつく。そして彼女は、どこかから伸びる長く柔らかそうな管の先端を手に持っていた。たまにそれを咥えては、口から離す。するとリカの口から白いもや……煙が出てくる。白いもやは管から出る煙だった。白煙に包まれるリカの姿は、その白肌の体の美しさも相まって幻想的で、まるで天女のようだった。
「フェンレイ」リカは振り向き、横たわるフェンレイの顔に、手に持つ管の先端を添えた。そしてフェンレイの唇に、それを押し当てる。フェンレイの唇を割り開くように、管の先端が入ってくる。リカの微笑みに安心感を覚え、フェンレイはされるがままにそれを受け入れていた。
苦い! フェンレイはむせた。すぐに管の先は口から離される。さっきから感じていた重い草の香りが、喉へ一気に雪崩れ込んだのだ。フェンレイは何度か咳き込んだ。
「ごめんね。最初は苦いけど、慣れれば甘いのよ。それに水をくぐらせてるから、いくらかマシなはずよ」
フェンレイは息を整え、リカの姿を見やった。彼女は変わらぬ表情で手に持つ管を口に当ててくる。その先端には小さな穴が開いていて、そこから煙が漏れ出ていた。普段なら払い除けるところだが、体はそれを再度受け入れようとしていた。
「ゆっくり吸って……」
フェンレイは言われた通りに、管の先から出ている煙を吸い込む。すると喉に粘り気のある重たさを感じた。熱いものを飲むかのように、少しずつ飲み込んでいく。煙が気道から肺へと流れるのを想像する。すると、喉の苦しさはしだいに和らいでいった。
「うん、よくできたね」
管が口から離される。いまだに口の中で熱い何かが滞留していて、唇の隙間から少しずつ漏れていく。
たしかに、苦みの奥に甘みを感じた。その甘みがどんなものなのかと味わおうと思ったとき、ついに体は煙の拒否をやめた。煙が肺で吸収され、血液で運ばれて全身へと広がる。そして頭へ巡ると、フェンレイの灰色の視野の中で、リカの白肌が橙と青の濃淡で彩られて見えた。彼女の髪が茶色だとはっきりとわかり、艶の輝きを感じた。それらは次第に燃えるかのように、鮮やかさを増していった。
「フェンレイ」「よくできたね」
リカが声をかけ続けてくる。いや、フェンレイにはそれが続けて言われたものなのか、間を置いて言われたものなのか判別できなかった。意識はゆらぎ、記憶が順序に関係なく拾い上げられていく。これは悪夢か?
「大丈夫よ」
不安が湧きそうになると、リカの優しげな声と、背中をさする手が心をなだめた。頭がきつく固まっていたような感覚がほぐれ、心が軽くなっていくようで、心地良い。フェンレイはしばらくそのような状態に身を委ねていた。
ふと時間が正しく流れるような感覚を覚える。閉じていた目を開けると、リカはどこかへ行っていて、白い靄も無くなっていた。
ものがはっきりと見える。視界に色を取り戻したフェンレイは土壁の小部屋で寝かされていたことにはじめて気づいた。服は着ていない。開け放たれた窓の外は橙で、夕日かまたは朝日だ。そばにある机の上には茶壷のような陶器がおいてあり、その横から管が伸び、巻いて置いてあった。管の先端は、明らかに先程リカとフェンレイが咥えていたものだったが、今そこからさっきのような煙は出てきていない。
ここはどこなのか、何が起きたのかと考えていると、米が炊けるような甘い香りが漂ってきた。そのとき体が急激に反応し、強い空腹感に襲われる。これまで空腹など感じている場合ではなかったというのに、いや、今だって。死に損ないの私はどこへ行った?
「あ、フェンレイ、起きたのね」
部屋の外から服を着たリカが駆け寄ってくる。手には椀を持っていた。米の香りを発するそれに、フェンレイはとても強く惹きつけられた。
「おまえは、誰だ……なぜ私の名前を知っている」
自らの意思でやっと言葉を発したフェンレイに、リカはきょとんとしたあと、柔らかく微笑んだ。
「私はリカ。貿易街道を西東と旅する、商人よ」
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