女剣士の絶望行 一章 蕾む菊の花 4話 朽木 前編

 髪を下ろした菊花ジファ様も、なかなかに可憐なのだが。花の油を馴染ませた、菊花様の髪を梳きながらそう思う。さらさらとした感触が心地良い。十歳でまだ幼気な菊花様の髪は潤っていた。油は不要なのではとも思う。十分にしなやかだし、花の香りがなくたって構わないだろう。だって、こんなに……。つい見つめてしまうのは、菊花様の髪を上げて見える、うなじ。そこにできた空間は、彼女の暖かさ、潤い、芳しさが詰まっている。そこから香る匂いに誘われるように……いけない。そこに顔を寄せようなどと考えるなんて。そんなことをしては、このまえ色欲に我を失った第三王子と同じではないか。じゃ、ないだろ! これは劣情ではなく、あくまで、その、幼子に対する愛情のようなものであって……邪念とかではなくて……。
豊蕾フェンレイ、なに考えてるのかな?」
 背後から鈴香リンシャンに声をかけられ、声が上がってしまった。鏡に映る菊花様は、微笑んだまま、興味ありげに鏡越しで私と鈴香に漆黒の瞳を向けている。
「いや、なにも……」
「ふふ、だったら手を動かしなさい」
 鈴香は笑い混じりに言った。まるで見透かされているようで恥ずかしい。
「ゆっくりでいいですよ、豊蕾」
「あ、いえ、大丈夫です」
 私が手を止めていたのは髪結いに手間取っていたからだと受け取った様子の菊花様は、優しく声をかけてくれた。確かにいまだに完璧とは言えず、この5日間、朝の髪結いは鈴香に見てもらいながら行っている。そうだ、今は雑念に惑わされていい時間ではないのだった。気を引き締めなければ。邪念……ではないが、そういった類のものから開放された私は、外の細かな音に気づいた。霧雨が降っているようである。気を取り直して櫛を持ち直した。
 髪を梳かすことに難はない。髪を左右に分けて紐で縛るのも、束の位置が決まれば問題ないし、やり直しもきく。問題はこのあとだ。固めの油を浸透させ、束をねじってお団子状に巻いていく。時間はかけられない。油が固まってしまうためだ。刀捌きには自信があった。刀であれば、誰よりも繊細に動かせると思っている。男共が力任せで振り回しているものを、私は寸分の狂いもなく扱える自信がある。だがそれと櫛とでは勝手が違う。
「もうちょっと巻をゆるくしたらよかったかな。毛先のまとまりも悪くなってるわよ」
 鈴香の言う通り、髪束の締りがいつもより強くなってしまっている。そのせいで髪が少し余り、お団子からはみ出た毛先が開き気味になってしまった。だが既に固めの油を染みこませてしまった後なので、今からはやり直せない。
「毛先は油でなんとかなるかな。でも、締りがきついと菊花様が痛いかも」
 息が詰まる。菊花様に痛い思いをさせているかもしれないことに気づかされ、焦ってしまった。
「大丈夫ですよ。痛くありません」
 しかし菊花様は微笑んでくれた。
「それに、豊蕾が頑張ってくれているのがよく分かりますから、嬉しいくらいです」
「ああ、そうですか……よかった……」
 気を遣ってくださっているのだと思うけれど、それでも嬉しかった。自然と顔が綻んでしまうくらいには。一方で、本当に痛くないのか心配になる気持ちもあるのだが。
 お団子に紐を巻いて仕上げていると、鈴香がにやにやとこちらを見ているのに気付いた。
「どうした?」
「こういうのは思いやりが大切なんだけれど、豊蕾なら大丈夫そうね」
「は? どういう……」
「ううん。菊花様、今日も立派なお団子に仕上がりましたね。豊蕾、明日はもっと上手にできるわ」
「はい」
「え、おい、鈴香!」
 私と、笑顔の菊花様に手を振りながら、鈴香は荷物を手早くまとめて部屋を出て行ってしまった。何が言いたいのか分からないままに会話を終わらせられて、なんだかもやもやした気分になった。
 思いやり、か。これまで仕事となれば、相対する者は敵。常に人が嫌がる選択を取ってきたから、人を思いやるということから縁遠い生活だった。だから、まるで私に思いやりの心があるというような鈴香の言い方が引っ掛かってしまったのだ。もし彼女にそう見えたのなら、それはただ私が、菊花様の境遇と自身の境遇とを重ねて見ているが故だ。王妃や王女らから虐げられ、ひとり除け者にされる菊花様。それとユイ家の男共の中、女ひとりで軽んじられていた私。同じ孤独を背負う者同士として、私が勝手に同情しているだけなのだ。真の私は、思いやりなど持っていないというのに。


 菊花様と食堂へ向かう途中、他の王女らとすれ違うことがある。例の長い廊下の突き当りから右に進み、他の廊下と交わる場所で、ある王女と行き当たった。菊花様と歳が最も近い、第五王女の蓮玉レンイだ。年は菊花様の3つ上で十三歳である。背は菊花様よりも頭一つ高く、私の目線より下に来るくらいだ。髪は長く、編み込んで後ろに流された髪が腰ほどまである。艶のある黒髪はサラサラと靡いている。蓮玉や他の王女らは、当然各々につけられた侍女たちに髪の手入れをされていた。刺繍の入った蒼色の着物を着ており、袖口からは白く細い手首が見える。帯は赤紫で蝶結びになっていた。目は、王妃と同じように吊り上がっている。だが、あの王妃の持つ憎たらしい雰囲気はなく、むしろ気品ある美しさを感じさせた。眉は細く整えられており、鼻筋も通り高い鼻をしている。唇は小さくふっくらとしており赤い紅が白肌によく映えていた。もしかしたら、王妃の若い頃も、実はこのような顔立ちだったのかもしれない。彼女の背後には、帯刀した護衛の男が一人ついてきていた。王女の護衛の数は基本一人らしい。ただ菊花様には、私が護衛として来るまで一人もいなかったそうだが。
「ごきげんよう、姉上」
 菊花様が立ち止まって頭を下げるが、彼女は進む方を見据えながら、そのまま歩いて通り過ぎようとしていた。いつもそうだ。王女らは菊花様の声掛けを無視して通り過ぎるのがほとんどだった。
 王妃や王女らから強いられていた毒見を菊花様はやめることにはなったが、結局態度は変わらない。王は単に毒見を止めただけで、根本的な何かを解決したわけではないのだ。それでも菊花様は、今、笑顔を蓮玉に向けている。どうして菊花様は、このような扱いをされているのに笑っていられるのか? それが私にはわからない。
 だが、今日、蓮玉は足を止めた。ここ数日では無かったことだ。彼女は顔だけを向け、横目で菊花様を見た。
「その頭」
 彼女の声質自体は高いようだが、低めの声を出される。菊花様は笑顔のまま聞いていた。
「そこの女がやったんでしょ? 侍女でもないその人に。雑な仕事なのが見え見えよ」
 菊花様の髪を見ながら彼女は言い放った。私が結った菊花様の髪を、けなされてしまった。腹の底に力が入った。声が出そうになるが、それを必死に抑え込んだ。
「わたしは、好きですよ。しっかり巻いてくださって……」
「あんたにはお似合いなんじゃないの」
 頭に手を添えながら返事をする菊花様の言葉を、蓮玉は冷ややかに遮った。そして前を向きなおして歩き出し、そのまま去っていく。護衛の者もそれについていった。
 私はそこで立ち尽くしてしまった。知らぬ間に拳を強く握っていたようだ。開くと掌に爪の跡が残っていた。菊花様を侮辱された怒りと悔しさが込み上げてくる。同時に、自分の未熟な髪結い技術のせいで、菊花様がけなされてしまったことへの情けなさを感じた。私が笑われるならいい。だが、菊花様を悪く言われると、どうしても耐えられない自分がいる。自分でも驚くくらい感情が高ぶってしまうのだ。
 なんとか黙りながら蓮玉の後ろ姿を見ていると、菊花様は再び歩き出した。
「行きましょう」
「はい」
 私はすぐに返事をし、菊花様の横に並んだ。
「また、明日もやってくださいね」
「……はい」
 菊花様は微笑んでくれた。その笑顔が心に沁みた。


 書庫から本を持ち出してきて、菊花様の部屋で、いつものように彼女が読書をするのを見守っていた。読書の時、菊花様は凛とした表情をする。いつも真剣に勉学に励む姿勢には感心させられるばかりだ。そんな真剣な横顔を見つめながら、私はここ数日で知ったことを思い返していた。王子王女らは学習の際、教師が招かれるらしい。だが、菊花様は教師から勉強を教わっていない。菊花様だけ授業に呼ばれないようなのである。だから毎日こうして一人で本を読み耽っているのだ。部屋にこもりきりで。理不尽だ。第三王子みたいな怠惰な者にも教師をつけるのに、勉強熱心な菊花様は除け者にされるというのは。他の王子王女らが享受する恩恵を、なぜ菊花様だけが受けられないのだろうか? そして、なぜ彼女はその境遇を受け入れているかのように独学で勉強し、王妃や王女らに嫌味を言われても彼女らに笑顔を向け続けるのだろう? 私にはわからなかった。

 扉を軽く叩く音が聞こえた。
「菊花様」
 玉英の声だ。彼女は扉の向こう側から呼びかけてきた。
「はい」
「入ってもよろしいですか?」
「どうぞ」
 私が答えると、扉を開けて玉英が入ってきた。
「菊花様、豊蕾。お菓子を頂けましたので、持って参りました」
「わぁ」
 菊花様は目を輝かせて立ち上がった。木の実を練りこんだ焼き菓子だ。甘い蜜のような香りが漂ってくる。
 玉英は肩くらいまでの黒髪を揺らしながら、盆に乗せた皿を机に置いた。
「ありがとう」
 玉英とは、互いに畏まらずに話すようになっていた。鈴香とは初日からそうだったので、それに倣ってのことだ。
「豊蕾、お茶を淹れてあげられる?」
「ああ。それくらいなら」
「お願いね」
 そう言うと、玉英は踵を返す。
「玉英も一緒にいかがですか?」
「ごめんなさい、まだ仕事が残っておりますので……」
 玉英は菊花様に頭を下げ、部屋をあとにした。

 玉英は、はじめ私がここへ来たときに菊花様の元へ案内してくれた使用人だ。どうやら使用人たちの中でも、特に彼女は菊花様の境遇を気にかけてくれているらしい。
 彼女なら、菊花様のこと、なにか知っているかもしれない。
「お茶を淹れてきますね」
「はい、お願いします」
 菊花様に断りを入れて、部屋を出た。隣の私の部屋へ茶を淹れに行くその前に、廊下の途中で歩く玉英の元へ走った。雨の香りがする風を受ける。雨が強まってきているようだ。
「玉英」
 呼び止めると、玉英は振り返った。その表情には、微かな緊張が見られた気がした。
「どうしたの? お茶の葉でも切らしていたのかしら?」
 たぶん、玉英のその言葉は本心ではないと思う。だって、私の部屋に茶葉はまだまだたくさんある。彼女はそういった細々とした情報をよく把握しているはずだから。
 いつか聞かれると思っていたのだろう。その硬い表情からは、そんな雰囲気が読み取れた。
「教えてほしいことがあるんだ」
「何かしら?」
「菊花様のことを」
 すると、玉英はそのたれ目を優しく細めた。安堵を含んでいた。
「やっぱり、そのことなのね」
 玉英は溜息をつく。やはり予想されていたようだ。
「なぜ菊花様だけがあんな風に除け者にされるのか。それに菊花様も、どうしてそれを受け入れているのか」
 玉英は、少し困ったように眉を寄せた。しばらく間を置いた後、意を決したように顔を上げ、口を開いた。
「わかったわ。教えるけれど、他言無用よ」
 雨音の幕の中、彼女は私の耳元で囁き始めた。


 湯気が立つ湯呑をふたつ盆に乗せ、隣の菊花様の部屋の前に立つ。胸が高鳴るのを感じた。少し手が震えるのは、雨で冷えたせいだろうか。いや、違う。玉英から聞いた話が、頭に残り続けていたからだ。この扉を開けたとき、どんな顔をすればいいのかわからない。だが、いつまでも廊下で立っていても仕方がない。覚悟を決め、扉を叩いた。
「失礼します」
 部屋に入ると、菊花様は笑顔で迎えてくれた。本は片付け、卓上の菓子には手を付けず待っていたようだった。
「ありがとうございます、豊蕾」
「いえ」
 茶を置いて椅子に座る。菊花様は茶に口をつけた。私も一口飲む。喉を通る液体はさっき風に晒されたせいで熱を失くしていたが、それでも温かかった。
「お菓子もいただきましょう」
 そう言って菊花様は私に勧めてくれる。だが私は食欲が無かった。先程聞かされた話が気になって仕方がないのだ。しかし、せっかく勧めてもらったものに手をつけないわけにはいかない。一欠片を口に入れた。しかし味がしない。食感はあるのだが、味を感じなかった。きっと緊張してしまっているからだろう。私はもう一口茶を飲んだ。
「美味しいですね」
「そうですね」
 菊花様は微笑み返してくれたが、その顔はどこか悲しげだった。私が作った笑顔がぎこちないせいで、彼女がなにかを感じ取ったのは明白だった。
 菊花様は茶を飲み、湯飲みを静かに置いて、少し間をおいてから口を開いた。
「玉英から、聞いたのですよね」
 心を読んだかのような言葉に私の心臓が跳ねる。それと同時に、菊花様が私へ目を向ける。その目は優しげだった。隠さなくても良いと言っているかのよう。
「……なにをでしょうか?」
「わたしのことを」
 私は何も言えなかった。黙ってしまうのは肯定しているのと同じだが、否定することもできなかった。目が泳いでしまっているのが自分でもわかる。そんな私を見てか、菊花様は優しく声をかけてくれた。
「わたしから言おうと思っていたのです。ですから、そんなに慌てないでください」
「ですが……」
「大丈夫ですよ。では、わたしから、ちゃんとお話しましょう」
 菊花様は背筋を伸ばし、膝で手を組んで、笑顔を作った。私はこれから聞くことになる話を思うと、とても笑顔になんてなれなかった。菊花様は少しでも明るく話をしようとしているのだろうが、私にとってはそれが辛く思えた。

「わたしは王妃の子ではありません。側室の子でもないのです。私の母は、かつてここに仕えていた使用人です」
 玉英の話は事実だった。


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