わたしの超越論と自由意志論

僕は人間には自由意志は存在しない可能性が高いと感じている。決定論か偶然論かでいったら偶然論の方を支持するけれど、偶然と意志は別物だと思う。自分が物事のどちらを選択するかも実は偶然なんだ。すべては偶然性が孕むから運命は決まっていないけれど、そこに自由意志は介在できない。自由意志があるとするならば、それは宇宙外の力(物理法則の相互作用を受けない力)でなければならないから。もし自由意志があるならそれは神しかいない。ということは法則と偶然の正体は神の意志かもしれないので、人間には神に祈るくらいしかできない。未来は決定していないし、未来は確率的に予測はできても、自分で未来を選択することは本当はできず、ただ意識では未来を選択したという気分になっているだけ、というのが僕の感覚。最終的にはすべてを受け入れるしかない。形而上的なことを空想しても、日常生活はこれまで通り考えて選択するし、特に何も変わらないが。

僕は偶然性を認めるが、それはいわば神の意志のようなものかもしれない。法則によってすべての未来は決まっていると機械論的には考えないが、偶然という名の神の意志で、未来は神のお導きのままに決定するかもしれないとは考える。つまり、それは古代ギリシャ人やカルヴァン派のような運命決定論に実質的に近いかもしれない。しかし、神は生命的な意志を持たない気まぐれかもしれないから、そうなると導きもないことになるので、運命は気まぐれということになる。

完全に気まぐれな非生命的な神(自然神)を空想することもあるが、個人的には神には生命的な意志(人格神)を持って導いて欲しいという願望はある。神を想定しようがしまいが、現象界の宇宙では物理法則が安定的に働いているので、確率論的に未来は予測できるし、実際に確率的に未来は動いてくれるから、僕らはひたすら確率的に物事を考えて合理的に行動すればいい。でもあくまでそれは確率。偶然性の余地については、単なる気まぐれか、神の意志か、といったところだ。単なる気まぐれなら全く打つ手はない。なすがままに身を任せるしかない。神の意志なら神に聴けばいいことになる。神に聴くことができるなら、占いとか、シャーマンとか、祈りとか、神の意志を伺う行為が可能になる。しかし、これらどれが真理かについては何の確証もない(どれもあり得る)ということが分かる程度には知性と理性を持っているから、最終的に僕は不可知論だ。

キリスト教的世界観では、宇宙は少なくとも三階層(神、天、地)あって、完全な自由意志を持つのは神だけで、天使や人間は宇宙外(天)にある魂に繋がっているので、物質宇宙上でもある程度の自由意志を持って行動できる、とする。だから人間の行動に対して神は責任を求めるし、神に魂の導きを祈るわけだ。

一方、中国などの思想では宇宙外に人格神や魂があるとは信じないから、ひたすら気まぐれな自然神だ。だから宇宙の流れにただ身を任せてすべてを受け入れるだけで、神頼みなどはしない。ただ死後も霊魂(思念体)が残ると考えるので、先祖に導きを求める(この先祖の霊には宇宙を司るほどの力はない)という発想があったりする。

僕は理性的には不可知論だけれど、超越論に対する信仰では生命的な神をどこかで信じている気がする。非生命的な気まぐれな神ならそもそも信じて交流する必要はないから感じる意味がない。人間に自由意志があるとは思わない。つまり、物理的な身体を越えたところ(天)にある霊魂は信じていないから、死者(死後)の霊も信じない。身体が死ねば意識も消えると思っている。宇宙に生命が存在するということは、宇宙そのものに生命的な要素を内包しているということだから、神が生命的でもそこまで不思議ではないと思う。小説より事実は奇なりだからなんだってあり得ると思う。それについてもやはり確信するほどではなくどこか冷静なのだが。

だから、基本的に安定的に働く物理法則を信じて、確率論的に合理的に物事を予測する。これだけでほとんどのことは賄える。確率に孕む偶然性については、生命的な神の自由意志による導きを知りたいとは思う。だからある種の祈りや啓示を求めたり感じたりはする。シンクロニシティとかね。感じたところで神の意志(偶然性)には逆らえないのだから、あえて知る必要もないのだけれど、神に導かれつつ生きているという自覚があると安心するし、神と交流して精神を宇宙的意志と調和させれば、神が計らって神の意思で未来を変えてくれることもあるかも知れないから。といっても、やはりどこまで考えても超越論には違いないので、どこか冷静で盲信するほどではない。そうやって、宇宙的な意志を感じつつ、確率論的に合理的に判断し、自分の身に起きる宿命についてはすべてを受け入れる。こんな感じで、理性と感性を調和させて生きている。

それに、自由意志はないということを自覚した上で行動する時にこそ自由になれる(すべてを受け入れることで心の呪縛から解放される)気がするな。

ちなみに誤解されると困るので追記しておきますが、形而上学的に自由意志はないと考えていても、実生活のレベルでは人間の選択・行動に法的責任が問われることは両立論で説明されるので無責任論とは違います。超越的(宗教的)な魂の責任が神に問われるのかどうかは知りませんが、そんなものはないかも知れないと思っています。だって死んだら終わりだと思っているから‥。せいぜい人々に語り継がれる名声には影響が残る程度でしょう。

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