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「津浪と村」「調査されるという迷惑」

「津浪と村」山口弥一郎著 石井正己・川島秀一編 三弥井書店

これは昭和18年に出版された本なのだが
東日本大震災を経験した我々のために復刊されたものだ。
山口弥一郎氏は柳田国男門下の民俗学者で
先生の田中館に誘われて昭和10年から三陸海岸の集落を歩きはじめ
明治29年の津波と合わせて、被害と復興の状況を調べた。
調査の成果は論文として発表されるが
師の柳田から

一人の尊い命でも救助を願うのなら
学術的なものではなく
当の三陸の漁村の人々にも親しく読める物を

と勧められて一挙に書いたのが、この「津浪と村」だったのだと。

いくらかでも津浪の問題で住民と語り合い
次の津浪で一人でも多く生命を救い得る縁をなしたとしたら
私の苦労は全く酬いられる。

山口弥一郎氏は
津波の記憶が薄れないように
三陸海岸を「津波常習地」と呼んで
人命を守るための研究と実践に生涯をかけた。

「一々峠を越して」
「寒風にさらされて、重いリュックサックを背負うて」
三陸沿岸を踏破しつつ
そこに暮らしている人々の話を聴いて
くり返し津波の襲ってくる場所にもかかわらず

人々はなぜもとの場所に戻ろうとするのか

その様々な「なぜ」をつづっている。
例えば
津浪で一家全滅したようなときには
そこの不動産や漁業権を継ぐというだけでなく
墓を守るために、全くのよそ者でも村に受け入れた、と。
なるほど、人の暮らしは一様ではないのだ。

「我々は津波直後に、惨害記録と哀話のみ綴っているべきではない」

「災害後の救済も、罹災者の要求に情けをもって対応してこそ」

などなど、今でもマスコミや行政に聞かせたい言葉が綴られている。
(もちろん、マスコミを「消費」する我々にも)

その土地で、そこの人と会って話をし・聴くことで
ようやくその土地での暮らしがいくらか実感できるのだ。
人間の問題は航空写真や報告書ではあらわれてこない、とも。

そういえば
小野和子さんの「民話採訪」も
「その土地で、そこの人と会って話をし・聴く」だった。
そうすることで初めて
その民話を生んだ人々の暮らしが見えてくるのだと。

ただ
「その土地で、そこの人と会って話をし・聴く」にあたっては
心しなければならないことがある。
そこでお勧めしたいもう1冊が

「調査されるという迷惑」宮本常一・安渓遊地著 みずのわ出版

副題は「フィールドに出る前に読んでおく本」
民俗学を専攻する学生が
人の間に入って調査行動をするにあたっての心得が書いてある。
研究のためだからとおおいばりで
よその人の暮らしにずかずかと足を踏み入れてはイケナイ
ということなのだ。
これは民俗学専攻の学生ばかりでなく
仕事づきあいでもご近所づきあいでも役立つ本だと思う。
何事にも礼儀と誠意を忘れてはイケナイ。

ちなみに
以前、スペインの友人に質問されたことがあった。
日本は地震があるし、台風は来るし、暑いし、雪は降るし
ナンでこんなトコ住んでいるの?

ずっと住んでいると
どんなところでもこんなものだと思って暮らしているのでは       「住めば都」という言葉があるよ                

と答えた、はず。
自分が今までどこに住んでいたのか
どうやって暮らしていたのかを考えると
自分が暮らす土地をそうそう簡単には離れられないと実感できると思う。


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