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共著の価値
勉強
読書
子育ての風景
大学は通信教育課程で卒業した。
大学のある東京に夫の転勤で引っ越したのが卒業直後で指導教授の研究室に行くとゼミに参加させてくれることになり、何度目かの参加で、キミも卒論の発表をしなさいと言われた。
「ゼミに入れてやったんだからそれくらいの落とし前はつけろよ」と先生。
もちろん通学生のゼミである。
普段、通学生は通信教育課程の学生と直接の交流はないから
通信教育課程の学生がどんな卒業論文を書くのかと思っているのだと。
黒板に図を描きながら卒論について説明するといくつも質問が出て
それに対してひたすらわかるように説明して発表を終えた時
このゼミの一員になれたと感じた。
その後先生から連名で論文を出そう、と言われて
やる気満々で取り掛かろうとしたが
結果として私の側の都合でそれは出来なくて
2年後東京を離れる時、居場所から引き離されるような気持があった。
それから何十年も経って
興味深く読んだ「宙わたる教室」がドラマ化されたのを知って見ていたら、定時制高校の研究発表が高校生の科学研究大会へのエントリー段階で門前払いされたエピソードがあった。
心騒いでもう一度本を開いてみると、本の方では高専の学生が参加した大学の研究でその学生が大きな役割を果たしていたにもかかわらず高専の学生だという理由で論文の共著者の名前に入れてもらえなかった、となっていて、その学生の失意と指導していた先生の怒りが描かれている。
そして
夜中に心の底にあった記憶がよみがえった。
通信教育課程卒業の私を自分の研究室に迎え入れてくれようとした先生。
通信教育課程卒業の私と連名で論文を出そうと言ってくれた先生。
当時は通学生だろうと通信教育課程だろうと評価されるべき論文だから当たり前だと思っていたがもしかしたらそれは当たり前ではなかったのだということに思い至った。
どうしてあの時無理やりにでも論文を書かなかったのか。
いや、無理は出来なかったのだと苦い思いを反芻する。
私がこの本
「宙わたる教室」伊与原新 著 文芸春秋
を読んで
山田洋次監督の夜間中学校を描いた映画「学校」や
「ロケットボーイズ」ホーマー・ヒッカム・ジュニア 著 武者圭子 訳 草思社
を思い起こして強く惹かれたのは
自分も知識の高みに憧れ続けた側だったからだと今さらながら気が付いた。
あの時東京の大学のゼミで
私の経歴に関係なくごく当たり前にやり取りをしてくれたという事は
自分が「同じゼミ生」として扱われていたという事なのだ。
私は今になってようやくその「尊さ」に気が付いたのである。