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畏れよ、ゴジラの如く
本多猪四郎監督『ゴジラ』(1954)は、第五福竜丸事件、水爆実験、そしていまだ戦争の記憶が生生しく残る時代を背景に制作された国民的怪獣映画。
言わずと知れたシリーズ第一作でありますが、今作ではゴジラは核の脅威のメタファーとして、また長らく人間と共存してきた畏怖の対象として、描かれている。
時化(不漁)、頻発する謎の沈没事故について、島の老人がつぶやく。
「やっぱり、ゴジラかもしんねえ」
海の魚を食い尽くすと陸へ上がって人間を食らうといわれる怪物、ゴジラ。島には時化がつづくと若い女性を生贄として沖へ流したという伝説があり、今でもその名残が神楽として受け継がれている。
この映画に、公開当時の人々がどれほどのリアリティを感じたのかは想像するより他ありませんが、ひるがえって現代。
日本人が、日本人として変わらず畏怖しているものとは何か。
まだあるとすればですが。
正統性:せいとうせい:legitimacy
ある社会における政治体制、政治権力、伝統などを正しいとする一般的観念で、正当性とも書く。これによって自発的服従が調達され、政治権力は権威化されて安定した支配が確立される。
1
20年以上前のある日のこと。
自転車で帰宅中、歩道の先に人だかりができている。信号待ちらしいが、いっかな変わる気配がない。青なのは明治通りである。
自転車に跨ったまま待っていると、下りてくださいと警察官に声を掛けられる。
「陛下がお通りになります」
数分後、開いた窓からこちらにお顔を向けられ、手を振るお姿を拝見した。
新しい総理大臣を任命する儀式の帰りだったように記憶しているが、自転車から下りないのは不敬にあたるらしいというのが興味深い。
この話を職場の団塊世代の人にして、やや驚いた。普段はおだやかな物腰で年相応の威厳を具えた方だと思っていたが、あまりにも刹那的、幼稚な反応で。
嫌悪感を顕に、自分だったら絶対に自転車から下りないと吐き捨てる。理由は不明だが、小生が権威に屈し下車したのがお気に召さぬ様子であり、こき下ろしにかかる。
”何が日本の象徴だ、なんにもしねーでふざけんな”
と歌ったパンクバンドが昔いましたが、いい歳をして同レベルの雑言を吐くオッサンよ。
餅つけ。
思春期でもあるまいし。
けれどもこう弁えられぬ人は、珍しくない。
権威であれば叩いてもいい、けなしてもいい、「反権力」は正義であるという風潮がこの国にはある。
時の総理を名指して「お前は人間じゃない、たたっ斬ってやる!」とデモ隊の前で息巻く政治学者がいれば、現職の国会議員が暗殺されて、「殺されてかえって良かった」などとのたまう文学者もいる。
たとえ叩かれることはあっても、こういう人たちが社会的制裁を食らうということはまずありません。
言論の自由などというものではなく、大手メディア含め、「反権力」である彼等がこの国では主流派ということなので。
2
何年か前に紫綬褒章を授与されたミュージシャンが自身のライブで褒章を貶めるパフォーマンスをし、「不敬」であると批判を受けて謝罪をするということがありましたが、ミュージシャンいわく「客を楽しませるためで他意はまったくない」とのことであり、また謝罪したことにがっかりしたファンもいるのだとか。
表現の自由は守られるべきですが、表現であるゆえその受け取り方は人それぞれ、他意はないとはナイーブに過ぎる。
しかしパフォーマンスに喝采を送った人も謝罪に落胆した人も、無政府主義者でもなければ共産主義者でもない、何処にでもいる私たちと変わらぬ普通の人たちでありましょう。
年越しライブだったようですが、一夜明ければ正月らしいことをし、年神様を迎えるのでしょうし、皇居へ一般参賀に行くとは考えにくいにしても初詣に行けば鳥居の前で一礼し、頭を垂れる。
日本で生まれ育った者として、その場を弁えた振る舞いをする、誰もがするように。
日本人が、日本人として変わらず畏怖しているものとは何か。
それはたとえば、神社における恭しい振る舞いに見て取れましょう。
そこが聖域であるということは、初めて訪れたとしても、教わらなくとも感ずるはずである。言葉にせずともそこに神様がいらっしゃると、誰もがわかっている。
されど、「反権力」は正義であり「改革」は善であると信じ、「聖域なき」などというスローガンにころっと靡いてしまうのが、私たちであります。
構造改革、規制緩和、新自由主義的政策の果ての昨今、神社や寺院はもはや売買の対象であり🔗、火葬場にまで外国資本が参入しているとか🔗。私たちの「死」でさえも、ビジネスの対象であるという。
聖域が現実からなくなるのは、時間の問題でしょうか。
虚構とはいえゴジラが皇居を破壊しないというのは有名な話でありますが、その理由がたとえ畏怖の対象であるからだとしても、そのことに、私たちはいつまでリアリティを感じられるのでしょう。
3
最後に、現代が舞台である庵野秀明脚本・総監督『シン・ゴジラ』(2016)に、第一作と関連付けながら簡単に触れて終わりといたします。
<※以下若干ネタバレあり>
キャッチコピーは「現実対虚構」だそうですが、東京に上陸したゴジラは核の脅威そのものであり、「この星で最も進化した完全な生物」として描かれています。
ニッポンにとっての脅威であるばかりでなく人類の脅威でもあり、核兵器によって東京の街ごと「駆除」することを国連安保理が決定すると、それを唯々諾々受け入れるニッポン政府。
第一作の文脈からすれば、これは人類のために自国の国土を「生贄」として捧ぐというべきでありますが、核への畏れというものがまったく描かれていないので、「神事」ではなくただの政治的判断と成り下がる。
核兵器を持った人間の驕りゆえでしょうか。畏れを忘れた人間の、この星の支配者であるという。
<※劇中、実際には核兵器は使われません>
以上、お付き合い下さりありがとうございました。
人間には、形而上的な、己より崇高なものが必要なのでしょう。だからこそ連綿と続いてきた、受け継がれてきたものが今もある。
今もあるということに、畏れよ。
さらば続いていきましょう。
昔からの言い伝えを馬鹿にすると、今におめえたちあまっこをゴジラのえじきにしなきゃなんねえぞ
大戸島の老漁師、ご立腹のお言葉