風が吹いたら森を見よ
木を見て森を見ず――
きっと一度は耳にしたことのある諺かと存じますが、諺ですのでそれこそ昔から言われていることでありまして、いくら言われようとも、木を見て森を見ずと。
日本人の性分なのでしょうか。
首相の居眠りに茶碗の持ち方、野党代表の浮気に、元アイドル議員が政務官に就くのがどうだとか。
いや。いつもながらまことに人情的な捉え方で、近視眼的。世間話の域を脱しえぬ、
とそんなことを、
百年以上前に、我が国の文豪が書いていたのをふと思い出しまして。
風吹かば波立つように、
因あっての果であるように、
いかなる現象の背景にも、世間や人情などとは関わりなく厳然と、それを生み出す構造が。
近視眼では見えますまい。
以下、木と森、世間について少々。
風が吹いたら、
森を見よ。
二十数年前のある日、朝から無性に夏目漱石が読みたくなり、普段は足を運ばぬ近所の寂れた商店街へ。目当ての書店の、狭い間口の表には売れ筋であろう、エロ本がずらりと並べてある。
鼻で笑い、素通りして中に入り(好きな癖に)、文庫本を一冊選ぶ。『草枕』だったと記憶している。代金数百円を支払うと店主と思しき老爺が、ニタリとしてこう言った。
「ほう。名作をお読みなさる」
「……」
「お若いのに感心なことで」
「……」
相手は知識も経験もずっと豊富な人生の先輩である老人、片やこちらは、やっと産毛の髭が生えた19かはたちの学生であるにも拘らず、
生意気にも小生、
”エロ本を売るのに御執心のあんたに漱石はわからんさ”
と謎の優越感に浸り、したり顔で返事もせず、店を後に(好きな癖に)。
ああ、なんと。
愚かしや。
非人情のはき違え。
眼前のことだけで何事かについて、つい全てを知った気になる、そんな苦い経験は誰しもありましょう。
肝心なのは、後になってからでもいい、反省して、その背景に気づくことかと。
個人経営の商店が廃れ、シャッターを下ろした店が軒を連ねる ”シャッター通り” も、それと対照的に、賑わいをみせるシネコンの入った郊外の大型商業施設も、今では珍しくありませんね。
店を畳んだ元商店主が大資本のショッピングモールの従業員になるという構図は、物語としてはとうに陳腐化していて、そんな寓話はもう、ここ20年で聞き飽きたことでしょう。
構造的な原因としては諸々(ニュータウン、ドーナツ化現象、モータリゼーション等)あるでしょうが、現在も進行中のアメリカのいいなり規制緩和という文脈でいえば、その一つに挙げられるのが、例えば大型店舗の出店が活発となる契機となった、大店立地法〈🔗〉。
同法の施行が2000年であることを鑑みるに、あの老店主がエロ本に御執心していたのはエロが好きだったからではなく、生き残りを賭けて、競合との差別化を図った戦略だったという可能性も、無きにしも非ず。
人にはそれぞれ事情があるように、あらゆる事象、現象の背後には構造という因がある。ミクロとマクロの関係は部分と全体ということでありますが、全体(環境)を抜きには誰も生きられぬ。
誰もが他者との関係性の中にあるように、
私たちもまた、世界の中にある。
他者との日常生活の場を世間、無数の世間の集まりを社会とすると、世界とは、これらの総体でありましょう。
アメリカでは次期大統領が決まり、人事も次第に明らかになってきましたが、トランプ氏の掲げる政策が実現されればこの国の、ひいては世界の外交、軍事、エネルギー、経済といった安全保障上の諸問題の風向きはがらりと変わるでしょうに、
やれ「悪夢の4年間の再来」だの、「民主主義の危機」だのと偏った、海外メディアの論評を鵜呑みにした人情的な反応が精一杯、
だとすれば、
日本人には世間しか見えていないのでしょう。
饒舌に語りうるのは、せいぜいが伝聞で、身近な他人の浮気に居眠り、アイドル政務官のことについてであると。
漱石の『草枕』は、人と人との利害関係、人情渦巻く、疎ましい世間を離れて、非人情の詩境に憧れる画工の話ですが、似たような疎ましさと世界への無関心、そして空虚な生き辛さを、現代日本という閉塞的な「世間」に感じている方も少なくないのでは?
世間では
世界の風はどこ吹く風
お読み下さり、有り難うございました。
↓グールドが絶賛しておりました
一晩で読んだとか
↓読みながらヘッドバンキング
何度も頷く名著です