善を求め、時を重ねる
生とは持続であり、持続とは生存である。
生存とは「今」という刹那の連なる現象、波動であり、死へと向かう「時の流れ」である。
「時の流れ」、この不可逆性は確かである。死とは生の行きつく果てであり、逆はあり得ぬ。
川の流れは海へと続く。
生くるのは、今ここに生存しているのは、流れているのは他ならぬ「この私」である。
「この私」とは生そのものであり、唯一無二の「時の流れ」である。
この「流れ」は他者との関係性においてのみ生ずる。全体なき部分などない、他者なき己などあり得ない。
他者とは「この私」という「流れ」の源流であり、知性の対象すべてである。
「この私」という果にとっての因であり、「この私」にとって、かけがえのないものが他者である。故に「この私」は他者を求める。他者へと流れる。他者を知るとは己を知ることである。己を知るとは己の因を求めることである。
あらゆる「流れ」には因があり、「流れ」とは常に移ろう「今」という現象である。知るとは「今」の正しき因を求めることであり、因はつねに正しい。因はつねに正しいが故に、因を求めるとは、すなわち善を求めることである。
善とは、不変に有るものではない。求めるものでもない。求めることである。正しさを求めることである。他者という己の因を求めることである。
他者を求め、他者と出会うとき、私たちの時は重なり、世界が幕を開ける。
世界のなかにあって、生存とは共存である。
共存とは、私たちの善を求めることである。私たちの因を求めることである。私たちの自由を求めることである。
自由とは、世界のなかにあって、己の役を知り、演じることのうちにあるという。
世界とは舞台である。
演者により役は異なれど、役には因がある。因を求めるとは善を求めることであり、演じるとは、すなわち Making good things better である。