うばすてやま考
親と子の関係性は人の数だけありますが、根底にあるのは依存関係。それが経年により移ろう中で、世にある「親子」という幻想も相まって己を見失うことも。
以下、備忘録的に「姥捨て」について。
やや偏ってはおりましょうが、お付き合いくだされば幸いです。
毒親でなくとも、
誰しもこころの中で一度くらいは親を棄て、その死を願うものである。
それがどんな親であれ、理由はなくとも、象徴的な意味において、あるいは文学的に。
人は完全ではない、
という当たり前を子は親を通して学ぶ。
完全でないのは人は死ぬからでありますが、醜いからでもある。
親の醜態というものを、幼いころから子はよく見ているものである。
醜さは人目に余る。
そして人の目を開かしめ、
親子といえども異なる価値観を持つ者同士であると知れば知るほどに、人を遠ざける。
己以外は他者であり、誰しも他者との関係性のうちにあるということ。
親子とは、その中の抑圧的なもののひとつである。
年老いてなお生に恋々とし、声は大きく、死には無関心で、己が世界の中心であると信じて疑わぬあの人たちに対し、最早いかなる感情も抱いてはおりませぬが、
小春日和の午後、ふと晴れやかに思えらく、
反抗期のあるがごとく、姥捨て期なるもの、あるべしや。
支配と隷従、
愛着と憎悪、
憧憬と侮蔑、
抑圧と自由――
親子とはかように、対となった幻想でありますが、幻想だけに、根が深い。
幻想なんぞただの言葉であるはずなのに。
吉本隆明(1924~2012)が、
『共同幻想論』の中で言葉について書いておりますが、
言語というものがあるのではない、語られた言語、書かれた言語がその都度あるのだと。
言葉とはつねに恣意的であり、一回性の自由である。
この私の見ている世界もまた恣意的に、今、自らに由って言葉により分節化されたものであります。
この意味において、誰もが孤独で自由であるといえましょう。
他者との関係性のうちにあっても、自らのみに由ってあるのが人の本来のあり様なのだとすれば、だからこそ子は、象徴的に、関係性を断つために親を棄て、その死を願う必要があるのやも知れません。
以上、締まりのないことを書き連ねて参りました。
棄老伝説は世界各地にあるようですが、現代において「口減らし」のために高齢者を見捨てることなどあってはなりません。
されど世の中が貧しくなればなるほど、そういう風潮も立ち上りましょう。
こちらは政治が解決すべき問題であります。
先日衆院選の公示がありましたが、戦後我が国の醜態といえば、アメリカの犬と成り下がり皆様すでにご承知のとおりでございます。
79歳、“後期高齢者”となり、最早自らに由ってあろうとする気概もないのであれば、お亡くなりにならぬうちに私たちの手で、「お山」へお連れ致しましょうか。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。