怒りについて、やや怒りつつ
新年早々、
東京の街を破壊して回るゴジラさながら怒りをぶちまけるハゲに遭う。
対等な立場といえども、世間的、慣習的にはこちらが向こうを立てる側であり、それを利用してか、ハゲ終始傲慢であり、声を荒げてハゲ罵詈雑言、だれかれ構わずハゲ腐しハゲ貶め断罪しハゲ、揚げ足をハゲ取ってはしたり顔、幼稚たるは稚児の如し。
とはいえ、
共有できぬ、覚えのない他人の怒り、承認欲求、処罰感情を受け止める器なんぞ小生にはなし、さりとて受け流す術も、これと言ってない。
ハゲ端的に不快にして不毛ハゲでありましたが、怒りの発散は快であり、同時に苦でもあり、炎天下の砂漠で渇きを潤すのに芋焼酎を痛飲するが如き、毒である。
村中直人『〈叱る依存〉がとまらない』によれば、承認欲求に限らず、処罰欲求も、それが満たされるだろうと期待すると快を感ずるドーパミンという神経伝達物質が分泌されるとのことですが、快は理性に先立つ、おいしい食べ物同様、欲求とは獣でも分かるもの、かくして水は低きに、ハゲは易きに流れる。
いくつになっても理性的に振る舞えぬ人は珍しくありませぬが、彼らが悪口雑言、叱責、面罵、断罪をやめられないのは、自分が気持ちいいからであり、いつも怒っている人は怒りの発散による刹那の快に依存しているといっても、あながち間違いではありますまい。
されど怒りは、怒ることによっては鎮まらぬ、むしろ増幅するものであるらしい、笑えば楽しくなるように、怒れば腹が立つという🔗。
“依存”していては、いずれ破滅を招くかも知れませぬ。
聡明なる皆様におかれましては釈迦に説法でありますが、怒りに振り回されるのは一時の欲に振り回されると同義であり、己の快楽を得んがために他人を巻き込み蔑ろにする行為は、とどのつまりは暴力であり、そうと気づけば怒れるハゲも愚かで浅ましい、独りよがりな毒を食む哀れな獣と映じましょう。
人の振り見て我が振り直せと申しますが、己の怒りは己だけを追いかけてくる、だからこそ厄介でありますね。他人からすればどうしようもなく、自身で向き合うより他はない。
とはいえ他人を巻き込まず、快を求めず、ひとり苦しみ怒りと向き合う人には手を差し伸べたくなるのが人情というもの、本稿が何かの足しになれば幸いです。
怒りに取り憑かれているのがただの他人なら、遠ざければ済みましょうが。
自己とは他者との関係性のうちにしかあり得ぬもの、ゆえに他者を慮れぬは人にあらず、悪魔に取り憑かれた餓鬼畜生も同じ、理を説いたとて不毛であり、もしそれが大切な人でなければ、距離を置き相手にせぬこと、これに尽きる。
以上、やや怒りつつ愚考して参りましたが、怒りは人として自然な感情、誰しも抱くものであり、せめて近しい人の怒りなら多少は受け止められるくらいの器を持てと自戒を込めて述べ、結びと致します。
最後までお読みくださりありがとうございました。
人から怒りを、とりわけ処罰感情をぶつけられても、たとえ自身に非があったとしても、己を裁けるのは己だけであります。
他人ごときが、何するものぞ。
↓叱ることと
学習や成長を促すことは別物だとか
権力を利用した独善でしょうかね
↓泣くから悲しくなる
笑うから面白くなる
怒るから腹が立つ