白仗
白杖をついた女性がいた。
県内でも大きな美術館の特別展に、である。
確かその時は騙し絵で有名なエッシャーの絵が来ていたと思う。
美術教師から私の好きな絵が来ていると、聞いて喜んで飛んで行った思い出がある。
女子中学生が夢中になるほど、二十世紀に活躍したこのオランダ人artistはたくさんの面白い絵を後世に残している。
例えば彼の代表作、『滝』。
これは残念ながら実物を見ることは出来なかったが数学の教科書(!)にも載っているような有名な絵なのだ。
滝が水車を動かして流れた、その水を辿っていくと最後は元の滝に辿り着く。違和感を感じてその絵を眺め直すと、不思議。立体的なのになぜか綺麗に一周してしまうのだ。wiki先生によるとベンローズの三角形なるものを利用して永久機関をあらわしているそうだ。
コトバで上手く表せないのがもどかしくて堪らないのだが、実は彼の作品はほとんど版画なのだ。白黒なのだ。『芸術家』ではなく『版画家』を自称していた彼は、版画によって幾何学的趣向の強い作品を数多く作成した。
つらつらと推しの話を書き連ねて何が言いたいのか、と言えばこの絵、実際に見てみないと何が描かれているのか、どういう手法で描かれているか伝わらないのである。
本題に戻る。
<なぜこの女性はここに来たのだろう>
失礼なのはわかっている。
わかっているがなぜ見えない絵を見に来たのだろうか解らなかった。
見たい絵が見られない事が、理解する事が出来ないのが虚しくならないのか?
この幾何学的な絵たちを知るには眼を使うしかない。
「そのえにはかいだんをのぼっているひととおりているひとがそんざいします。のぼっているひとをめでおいかけるとかいだんはうえにのびているのに、おりているひとをめでおいかけるとかいだんがさがっているようにみえます。」
と、説明されても何のこっちゃわからないだろう。第一この文を書いた私がわからない。
気になる人がいるとついつい観察してしまう私である。失礼に失礼を重ねてその方を観察させていただいた。じろじろ見ていたわけではないから許していただきたい。
入り口で少し話をした彼女は、杖を突き突き、介助者の手を借りて中に入ってきた。美術館の職員と思われる方も一緒だ。
入るなり彼女は「ここには何の絵があるの?」と聞いた。
ご存知の通り美術館内でのおしゃべりはご法度である。
幸い、その場には私と母しかおらず盲ご一行を気にしているのは私だけだったが、彼女の声はよく響く。
綺麗に響きすぎてこちらがヒヤリとする。
介助者は、にこりと笑って彼女を見つめていたその目を離し、そこに展示してあるパネルを見た。目を細めて解説を読む。
「ここには大きな写真が有りますよ。大きく外人さんの写真が展示されてあります。解説にはエッシャーの晩年に撮影された、と書いてあります。」
「大きいの?どれくらい?」
「えっと……、高さはあなたよりももっと高い、横幅は手を広げても届かないくらい。」
「本当に大きいのね!エッシャーはどんな容姿の人なの?」
─────
私はそっと次の絵を観るためにその場を離れた。
何か納得出来そうなできそうな出来なさそうな、そんな不思議な感情に包まれながら。
一つ確かな事は、その後は最初気になっていた彼女達の声が全く気にならなかった、という事だ。
むしろ心地良く耳に響いた。まるで親しい人達の声を聞いているような。
その日の私の収穫は
【何かを観賞するのに必要なものは決して目ではない】
という事であった。
「差別をするな」と人は言う。だが、差別なき世かがこの世にあろうか?
人との違いを認めずに差別をするな言うなかれ。