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当事者家族の語る不登校①
*2019年9月30日初出
〈以前、ブログに娘の不登校の原因、経緯を書きました。忘れてしまわないように記録として残しておこうと思ったのです。内容はあるセミナーでお話しした内容をまとめ直したもの。これはあくまで、親である私から見た不登校なので、娘本人の認識とは違っているのかもしれません。それでもいいと思っています。不登校という現実に私たち親子がどう向き合ったのか、自分自身で確認しておきたかったのです。〉
昨年10/20、一般社団法人「福岡おやじたい」さんのセミナーで、上記タイトルのお話をさせていただきました。もうすでに断片的にブログ掲載している部分もありますが、一応、わが家の経緯について記録しておこうと思います。
この記事掲載の可否については、先日上京した際に娘の了解を得ています。一年前の講演ですし、娘自身の実感とは異なる点もあるかとは思いますが、当事者家族として、間近に見てきた「わが家の不登校」はこういうものだった、ということがお伝えできればいいかなと思います。
なお、文章の途中で、いきなり短歌が出てきますが、当時の心境を端的に切り取ったものとして挿入しています。不登校当事者家族として過ごした日々(今でもその思いはありますけれど)は、短歌という表現形式に助けられた日々でもありました。この事についてもいつか書けるといいなあと思っています。では、しばし、「わが家の場合」におつきあいくださいませ。
✳︎娘の不登校
わが家に問題が勃発したのは2014年1月5日。娘が中学3年生の時でした。なぜその日を覚えているかというと、その日は夫の誕生日だからです。多分この日のことは一生忘れることはないと思います。夫が年齢を重ねるたびにあの朝のことを思う。これはきっと神様が、あの時の気持ちを忘れるな、とおっしゃっているのだろうと思います。人は忘れる生き物ですから。で、お手元のレジュメに書かれているもの、これは短歌なのですが、こちらをご覧ください。私は短歌に関わっているので、娘が不登校になって気持ちのやり場がない時、それを作品にしていました。1月5日の衝撃は、こんな風に詠んでいます。
・高校へは行かない受験はしないといふ 一月五日朝激震
実はこの日は、夫の誕生日であったと同時に、娘の最初の高校受験の前日でもありました。今となっては恥ずかしいかぎりですが、娘は計7校受験することになっていました。ありえませんよね。これは当時、娘が通っていた進学塾の方針でした。娘が目指していたのは、公立高校ではなく、かなりの難関私立。その本命受験に備えて事前に何校か受けておいた方がいい、そして関東方面も記念受験してみてはどうか、公立も一応受けようか、と今思えば無謀な提案を飲んでいたのでした。
当時の私は娘の苦しみに気づいていませんでした。いや、気づかないふりをしていました。ここで立ち止まったら終わり、そんな気持ちだったような気がします。娘はできること、できないことの凸凹が激しく、コミュニケーションも苦手なタイプ。俗にいうグレーゾーンですね。だからこそ、しっかりした学歴を身につけないと…そんな気持ちに捉われていました。
小学2年生から塾通いをはじめた娘ですが、学校は嫌いなのに塾は大好きでした。中学受験もしました。この時も7校くらい受けたと思います。関西、関東方面にも行って、私も付き添ったのですが、旅行のようで楽しかった。だから、3年後の今回も…と勝手に舞い上がっていたのです。ほんとにバカですね、私は。
そして、そんなに頑張って受験したにもかかわらず、娘は私立には行きませんでした。ここ福岡で、娘が一番行きたかった私立学校は、当時中学部が男子校でした。だから中学3年間は公立へ通い、高校からその私立へ行く、そう計画して、中学時代を過ごすことにしたのでした。小学校の長い6年間が何とかなったのだからあと3年くらい…、私はそう思っていました。でも違った。より強くなった鍛錬主義、根性論、全体主義的雰囲気に娘は日に日に疲弊していきました。いじめにも遭った。そして何より、娘自身の内面の変化、そう、思春期です。私はこれを忘れていた。いつまでも一卵性親子の生暖かい繭の中に娘を閉じ込めておけると思っていたのです。
・耐へ耐へて耐へて耐へ抜き耐へかねて雪に折れたる ささらなよ竹
1月5日の朝、憔悴した顔で「おかあさん、ごめん、もう学校行かなくていいかな、高校受験もしなくていいかな…」と言った娘を思い出すたびに胸が苦しくなります。娘の言葉に驚き、奈落の底に突き落とされたように、目の前が真っ暗になりましたが、しかし、同時に来るべき時が来たという思いもありました。謝るべきなのは娘ではなく私なのだとその時思ったのです。
(次回に続く)