『人生は常に出会い直しを必要とする』の言葉が、溺れそうなくらい沁みたんだ①
私の数少ない友だちに、ハル(仮名)がいる。彼女との出会いは高校生の時。その時はごく普通の仲の良さで、同じクラスになったことはなかったけど、学校の行き帰りで待ち合わせをしては、お喋りを楽しんでいた。
高校卒業後は、お互い地元に残り、別々の大学に通うようになった。しかし、どういう流れでそうなったか思い出せないが、私達は自然と頻繁に会うようになった。
当時、私は彼女より先に自動車免許を取得し、運転するようになっていたから、自然と私が彼女の実家まで迎えに行き、長いドライブに出かけるのが定番になった。お互い学校やバイトを終えた後だから夜中のドライブだった。目的もなく車を走らせコンビニで休憩する日もあれば、お菓子を買い込み海岸沿で過ごす日も、カラオケで熱唱する日もあった。
どんな場所に行っても、私達の主な目的はお喋りだった。終わりのない、長い長いお喋り。
10代後半、20代を目の前にした私達は多感で、少しの不安定さと、それでも多分大きめの将来への期待を抱えていた。そんな私達の目で見る日常は刺激的で、疑問や迷い、感動に溢れていた。将来のこと、友人とこと、家族のこと、恋愛のこと…身の回りで起きるあらゆる事と、自分が素直に感じた気持ちを延々と話し合う。結局、悩みや迷いは解決しないのだけど。
私達は何かと似ていた。好きなアーティストや好みの服装、物事の捉え方、共感するポイントなど。勿論、考え方の違いもあったし、そこは議論もした。あの頃は意識してなかったけど、その違いさえも含めて、お互いを認め合っていたと思う。だから余計に居心地が良かった。
私達の目の前には、拠り所といえる存在が確かにあった。
そんな生活が2〜3年程続いた頃、私に少しずつ変化が押し寄せてきた。それは喪失感を運んできて私の気持ちを一時的に塞ぎ込ませていった。ハルは私を励ましてくれるのだが、私はその言葉にさえ耳を塞ぎ、距離を取るようになった。
今なら分かる。あの時私は何かを乗り越えて前に進むことよりも、その場に佇み、喪失感や寂しさの中にいたかった。それが疲れ切った私には楽だったから。けれど、そんな心の状態に気づくことも言語化することも出来ず、ただただ彼女の言葉から逃れようとしていた。
どのぐらい時間が経っただろう。喪失感に支配されていた私は、ゆっくりとまた元気を取り戻していった。でも、ハルとは疎遠になっていた。
ハルと会わなくなって十年以上の月日が経った。彼女と会わなくなってからの私は、別の友人達と遊び、趣味に仕事にと、それなりに忙しく過ごしていた。だけど、時々彼女を思い出した。
「ハル元気かな」と。そして会えない時間が長くなればなるほど、それは「ハルはきっと元気。幸せに過ごしていたらいいな」と願いのようなものを抱くと同時に、再会のきっかけが何もなく、もう彼女と会うことはないかもしれない…という諦めと寂しさと、あの時の自分の行動を後悔した。
何十年も経ったから分かる。あんなに心を開いて話せたり、互いの違いを知っても、そのまんまの存在を認め合える関係がどんなに大切だったかを。
彼女を思い出す度にその事を痛感し、「ごめん」と「ありがとう」そして彼女の今の幸せを願うのだった。
〜『人生は常に出会い直しを必要とする』の言葉が、溺れそうなくらい沁みたんだ②↓へ続く〜