本を全く読む習慣のない私が本を手にして気がついたこと
最近自分の目標や熱中できること探しをしているらしい私が、その手段の一つとして本を手にとった。
きっかけは先日、本を読まないんでポッドキャスト聴きますといった内容の文章をnoteに投稿したことだ。
面白いもので、本を読まないですって文章にしてみると本を読みたくなる。完全に天邪鬼だ。
しかし、本をいざ手に取ろうとすると思ったより難しい。本屋に行っても図書館に行っても大量の種類の本が並んでるのだ。どれが面白いと感じるのかわからない…。本を読まれる方はどうやって新しい一冊を選ぶのだろう。
とりあえずネットやSNSがお勧めしてきた一冊を手に取る。
その本は政治学の入門として12の異なるテーマを12人の研究者が紹介する新書だった(『教養としての政治学入門(ちくま新書)』成蹊大学法学部)。
書籍として久しぶりにカッチリとした文章を読んでいると面白いことに気づく。
読んでいる内容に対しての自分の興味有無が面白いほど自認できるのだ。
自身の興味と一致する時はスルスルと内容が頭に流れてきて、ページを捲る手がはやまる。しかし興味からずれてしまうと頭に文章が流れてこない。目を通したのにさっき何が書かれてたっけ、となっている。
当たり前だろ、と言われるかも知れない。もしくは読書を普段からされる方には叱られてしまうような反応だろうか。
しかしこの体験はもっぱらネットでしか文章を読まなくなってしまった私には懐かしいような、新鮮なような体験なのだ。
Twitterやnote、様々なネットサービスでは大量の情報に触れ合うことができる。しかも自分の好みに合わせたオススメを提供してくれちゃったりする。
そして目の前に並べられた情報たちを、ごく自然に興味ある、興味ないに分け、興味ないものはごく自然に無視することができるのだ。
無視というのは本を読む上では難しい作業のように思う。
本は表紙から裏表紙まで一つのラインで繋がっているように流れがある。
もちろん章を飛ばして読むこともできるし、偶然開いたページを読むように作られた本もあるだろう。しかし、一冊の本にあるラインの存在を完全に意識から失うことは難しいのではないだろうか。
しかし、ネットで並んでいる情報たちにはラインがない。捨てた(もしくは拾う選択肢もない)情報は、取捨選択が行われた時点でそれらに意識をつなげるラインがないから「これは興味がない」「この情報は自分にとって欲しい情報じゃない」という記憶が残りにくい。
自分の取捨選択や興味関心の無さが記憶に残らないことは怖いことだと思う。
自分自身を知る機会を失っているし、何より取捨選択しているにもかかわらず自分の見ている情報が全てだと錯覚してしまう。
本を読む習慣がない私がいつまで本を読み続けられるのか怪しいが、
本を読まない時であっても情報の受け取り手としての行動を再考するいいきっかけになった。自分を褒めたい。
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