見出し画像

詩誌「三」31号掲載【その花がいつも呼んでいる】飯塚祐司

『よろず約束買いとります』

駅裏の煮物の匂いがする路地に、そんな看板を掲げた一軒の古びた店がある。それと知らなければ見過ごしてしまいそうな狭い軒先には、色とりどりの切り花が並び、太った赤茶色の猫が腹を上にして日向ぼっこをしている。店の中ではこれも太った老人が肘をつき、こっくりと舟を漕いでいた。机の上には、三ヶ月を二つ組み合わせたような変わった鋏と、木製の秤が置かれていた。

扉に吊るした鈴が鳴ると、老人はのんびりと目を開けた。そこには一人の女性が立っていた。背中まで届く長い髪を無造作に垂らした女性は、一見して異様な風体をしていた。指先から足元、顔に至るまで、全身を締めつけるように糸が巻き付いていた。色も太さもまちまちの糸が、何本も何本も女性の体を結んでいた。

約束の買取りですね。老人が笑みを浮かべて尋ねると、女性は俯いたまま小さく頷いた。老人はかしこまりましたと一礼し、女性を椅子に座らせてから鋏を掴んだ。その鈍い光を放つ鋏で、女性の体を傷つけないよう慎重に糸を切り始めたのだ。これはまたずいぶんと沢山の約束をなさったのですね。音もなく落ちる糸を丁寧に除けながら老人は語りかけた。女性は水たまりを叩く雨粒を眺めるように、じっと床の糸を眺めていた。叶わなかったのでしょうか。それとも叶えられなかったのでしょうか。俯いていた女性が初めて顔を上げた。その拍子に最後の糸が床に落ちた。萌黄色をした、一際長い糸だった。

糸を拾い集めて秤に乗せると、目盛りが大きく揺れた、少し色を付けておきました。そう言うと、老人は何枚かの紙幣と硬貨を差し出した。女性はそれを受け取ろうとしたが、硬貨が一枚指の隙間からこぼれ落ちて乾いた大きな音を立てた。老人はそれを拾い上げると、女性の手にもう一度しっかりと握らせた。ありがとうございました。そう声をかける老人に深々とお辞儀を返して女性は店を出た。薄く目を開けた猫が大きなあくびをした。

夜、店を閉めた老人の前には買い取ったたくさんの糸が山積みになっていた。老人は月明かりにかざしたそれらの糸を針の先に通し、慣れた手つきで動かした。足元では、かごの中に猫が丸くなって眠っている。老人が針を置くと、生花と見間違えそうになるほど精密な花が編みあがっていた。猫をかごの中から持ち上げると、散らず枯れずのその花を、一本ずつそっと置いていった。何の匂いがするのか、猫はしきりに鼻をひくつかせていたが、やがてまた尻尾に顔をうずめるように丸くなった。

乾いた風の吹くある朝、店の前を先日の女性が通りかかった。長い髪を赤い紐で結んだ女性は、軒先に並ぶ幾つもの花から、一本の切り花を見つけて足を止めた。それは萌黄色の小さな造花だった。咲きかけの、耳を澄ませば花びらの開く音が聞こえてきそうな花。朝露に濡れて、泣いているように見えた。女性はしばらくその花を眺めていたが、結局買わずに元の場所に戻した。時々振り返りながら去っていく、女性の後ろ姿を眺めながら猫が鳴いた。あくび交じりの、笑うような鳴き声だった。

2013年9月 三31号 飯塚祐司 作

いいなと思ったら応援しよう!