詩誌「三」75号掲載【しょしょ月 二十七日】水谷水奏
帰宅。カタツムリが玄関前の門柱のちょうど真ん中にコロンと、お供え物のようだ。門柱がすこし、墓石碑にみえてくる。
暑かろう、不本意かもしれないが、涼しい場所に移動してあげよう。そう思って拾い上げようとしたら、彼は、もしくは彼女(カタツムリは両性具有だっけ?)は、もはや殻だけになっていて、中身だったらしいなにかが不十分な接着材のようにうっすら汚れた白に残り、殻を持ち上げる力にわずかに逆らった。なるほど墓石碑で間違いないのかもしれなかった。
この世では近年「推し」などと呼ぶべきひとたちは去年の秋までに皆引退し、わたしは余生のような夏を、毎日サーキュレーターと共にすごしている。
こうだったらいいな、ああだったらいいのに。もしくはこうしたら、ねえどう思う?
頬杖をつきながらだれかと冷たい飲み物を前に愚痴や展望を言い合っている時間はとても無駄だった。どれだけ考えてもなにも叶わなくなにも変わらず、なにも分からず、そしてかけがえのない時間だった。
もうなにも、願ったり落胆したり、丁寧におしはかってみたり、憤ってみたり、そういった全てのわずらわしい茶番を、する必要はない。わずらわしいなやみ、すなわち煩悩をひとつ断った。
きみのいない夏。
なんて呟いてみたら、「きみ」がくっきりしてくるのかと思ったが、もはや記憶もすこしずつ、あいまいに崩れてくる。ちいさくがらんどうな、私の…いやこれは、カタツムリの、殻。
2024年9月 三75号 水谷水奏 作